いくつもの足跡が僕が歩くコースと同じようについていた。最初は同じようなエセウォーキングファンがいるのかと思ったが、余りにも僕の歩くコースと似ていたのでスリッパを重ねてみたら僕のサイズと全く合致した。そこで初めて自分のスリッパの裏を覗いてみたら、土の上に残されているのと全く同じだった。なるほど、雨上がりにこんなところを歩く人間なんて僕だけだろうなと納得した。もう2年以上ほぼ毎日同じ所を歩いているが、他の人が歩いているのを見たことがないから。 その足跡は今日はもう消えていた。まるで整備されたようにテニスコートは表面が平らだった。雨が流したのだ。すべての凹凸を一晩の大きな雨が流していた。たった一夜の雨でこれだけの大仕事をする。だからいわゆる大雨で山から木々や土砂を海まで流すなんて簡単なことなのだ。一瞬の大雨でそうなのだから、長い歴史をへれば水に出来ないことなんかない。山を削り谷をえぐり大岩を丸くし下流に肥沃な大地を作る事なんてなんでもないことなのだ。手からこぼれる優しい肌触りの液体が、巨大な岩をも削り下流下流へと流す。  生きてきた年数に比例して恥じ入ることは増える。思い出したくないことも増え、封印している事も増える。全部水に流してしまえれば楽なのだろうが、完全に流し去ることは出来ない。悠久の水の営みに比べればなんて小さな事かと、自分の器の小ささに気づく。この哀れな人間の営みは単に水に流してしまえばすむことだが、水が流した大自然の造形や営みは人知の及ぶレベルではない。水に流すと、水が流すのたった一つの助詞の違いは矮小な人為と神格化された大自然の究極の乖離。