浜辺

 ある晩、男が夢をみていた。夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」神は答えられた。「わが子よ。私の大切な子供よ。私はあなたを愛している。私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」    余り理解できないまま、何となくなってしまったクリスチャンだから、偉そうに言える教義なんて全く知らない。勉強会の7割方は居眠りをしていた。僕みたいな不出来の人間のために宗教はあるらしいから、その寛容さに感謝する。ただ最近何となく感じてきたことがある。仏教にしても、イスラム教にしても、勿論キリスト教にしても恐らく仏様や、神は善の固まりなのだ。人間が到底到達できない高さに位置する高度な善の固まりなのだ。それは目指すものかもしれないし、逆に諦めるものかもしれないし、畏敬の念で接するものかもしれないし、親しみを込めて接するものなのかもしれない。ただその固まりが、時々俄然顔を出してくれるのだ。不意打ちを食らってちょっとだけ立ち止まらせてくれるのだ。少しは人の役に立って見ろとささやいてくれるのだ。謙遜であれとささやいてくれるのだ。  誰が僕のためにささやいてなんかくれるだろう。誰が僕を背負って歩いてくれるだろう。