座布団

 「座布団をひいてやらないといけないので忙しいんよ」と言われて、これが農業のある作業を表す言葉と分かる人は余りいないのではないか。僕も実は今日初めてその言葉を聞いた。それ以上こちらが質問するようなことはしなかったから詳しくは分からないが、想像では、プリンスメロンの植え付けをするのに必要な作業みたいだ。梅雨に入った今の時期に始まるらしくて、西瓜と合わせて忙しい果物の時期に突入だ。 その農家の婦人が薬局のひさしでもう飛び立とうとするツバメの雛たちを見上げて「今年は何もかもちょっと遅いよ」と言った。何もかものほとんどは僕には分からないが、ツバメがやってくるのや、気温が上昇することや、梅雨などが遅いのは分かった。だけどそれ以上は僕には分からない。農家の方は、その何もかもを沢山持っている。毎日自然と触れ合って暮らしているから良く分かるにだろう。それこそ手にとるように分かるのかもしれない。  僕など田舎で何十年も暮らしていても、遠景として自然を眺めているだけで、直接手で触れることは少ない。その分、生活に密着した生きた知識はない。さすがに幼いときは、牛の世話も鶏の卵集めもしたし、叔母についていって畑で1日中遊んだり、あるいは生活の一部のように釣りもしたが、成長と共にそれらとは遠ざかってしまった。薬局の建物の中に閉じこもり、休日には都市部の勉強会に出ていくのが落ちだった。自然の微妙な揺らぎに気がつくはずがない。都心の安全地帯で声を落として伝えるニュースキャスターの気持ちの入っていない災害放送と何ら変わりない。  お皿の上にフォークをさして出されるプリンスメロンに最早命はない。僕らは自然の恵を頂いても自然の営みはほとんど分かっていない。耳を澄ますこともしないし、目を凝らすこともしない。只ひたすらに味覚を磨いているだけだ。50年畑を耕した農婦の言葉を理解する感性を、今日の雨も又潤す事は出来ない。