名字

 この年齢の方のひいじいさんと言えば何時代を生きた人なのだろうか。明治の初期か江戸時代か。 隣町から漢方薬を取りに来る人の中で同じ名字の人達が結構いて、その方に「ご主人と同じ名字の人が結構来られるのだけれど、皆さん親類なの?」と尋ねてみた。結構おめでたい漢字の組み合わせで、牛窓には1軒もその名字はない。何か由緒ある出の人達か言い伝えでもあるかと思って尋ねてみたのだが、「誰かが縁起の良い言葉を組み合わせて勝手に作ったんだろう」と素っ気ない返事が返ってきただけだった。そこで出たのがひいじいさんのことだ。「ひいじいさんなんか、みんな○○やんって名前で呼びあっていたよ。名字なんかあったのかなかったのか知らないけれど、みんな○○やんって名前で呼んでいた。そう言えばやんってみんな付けていたなあ。この辺りの言葉かなあ」と感慨深げに教えてくれた。「どうせみんな本気で名字なんか考えたりしてないよ、山の麓に住んでいたから山本、山の陰に済んでいたから影山、どうせいい加減なもんじゃ」と郷土史家のような私見を披露した。それが正しいのかどうか僕は知らないが、僕が印象深かったのは、今こうして生きている人がまだ名字がなかったときのことを覚えていることだ。ひょっとしたら、坂本龍馬と同時代に生きていた人達を目撃していた人が今も生きているかもしれないと言うことが印象的だった。指を折ってみなければ分からない、いや指を折っても分からないくらい昔のことだと思っているが、考えてみればつい最近のことなのだ。親の親の親のとほんの少しだけさかのぼれば、まさに武士の時代に達してしまうのだ。そうしてみると、人が生きている時間なんてほんの少しだって事が分かる。何倍速で現代は発展しているが、悠久の時間の前ではそれがなんだか空しく見えてしまい、価値を感じられなくなる。つい少しだけ手を伸ばせば江戸時代なのだ。年金を不正に受給するくらい根性で生きている人がいたら、やっぱり江戸時代なのだ。切ったり切られたりしていた時代はついこの前なのだ。  どうせ何の足跡も残さず消えていくのだから、そんなに力まなくてもいいような気がする。ちょっと先から今を見ればえらく頑張った時代だと見えるかもしれないが、歴史の針を1秒でも勧めることは出来ないのだ。人間の営みなどとは関係なく時は刻まれ。誰がどの様に生きたなど何に影響を与えることが出来るのだろう。何十年懸命に生きても砂粒一つの存在にもなれないのだから。