南方仁

便利も時間と共にありがたさは失われる。多くの便利を享受してきたが、とるに足らないような品物のとるに足る便利さを何気ない会話から再認識した。当たり前のようにいつしか使い始めたが、そう言えば当たり前でない時代は苦労していた。 使い捨てカイロは薬局で販売する場合は暖をとると言うよりも痛みの緩和に利用する場合の方が多い。慢性的な痛みの場合温めて治すのは常識だが、思えば使い捨てカイロが普及する前は、その温めると言うこと自体が難しかった。使い捨てカイロが発明される前は金属で出来た手帳を少し大きくしたようなカイロにベンジンを注ぎ、そのベンジンがゆっくり揮発して燃焼する熱を利用していた。金属だから勿論堅いし1cmを越える厚さもあったから、使うのはもっぱら腰だった。今のように柔らかくどの様にも変化するカイロだったら何処にでも使えるのだが。そんな話を懐かしくしていたら、相手の方が「その前は灰じゃったが」と言った。  そうだまさに灰だったのだ。これは手帳くらいとはいかずもっと大きかった。弁当箱に寧ろ近いくらいだ。その中でハムソーゼージのような形をした桐灰をゆっくり燃やして暖をとるものだった。こうなればもうほとんど体に密着することは出来ないから、手を当てたりしていたのだろう。「灰じゃったが」と教えてくれた人は僕より二回りほど年上だと思うのだが、すんなりと返事ができたところが残念だ。出来れば見たこともないものであって欲しかったが。実際に僕が牛窓に帰ってきた頃は薬局の店頭で販売されていた。  もう一昔どころか、四つも五つも昔の話が出来るようになった。余り過去の話はしない方だが、話に十分乗っていける過去を持ってしまった。いずれほとんどそればかりになるのだろうが、南方仁になって咲殿には会えないから、せいぜい毎日を「気張って過ごすぜよ」