電話

 「突然の電話でびっくりしました。何かあったんですか?」と妻に言ったそうだが、もっともだ。6年前に過敏性腸症候群の相談のために東京からわざわざやってきて、数日泊まっていったのかな。その後1年近く漢方薬を飲んで治した女性だ。それがこちらから電話したのだからさぞかし驚いたろう。こちらから連絡をするようなことは誰に対してもまずないことだ。ただ、彼女はうちにいる間に教会に一緒に行き、それが縁で東京に帰ってから教会に通うようになって、年賀状のやりとりくらいはしていたのだと思う。僕とはもう完全に縁は切れているが、その様な理由で寧ろ妻と縁が保たれていた。  そんな間柄で、それも朝の8時をちょっと回った時間帯に携帯電話で呼び出せば驚くだろう。そんな電話の鳴り方はたいてい良い内容ではない。彼女が何を想像したのか分からないが、ああ、言いたくない、それに決まっている。話を本題に戻そう。  電話に出た彼女は妻からある用事を聞いて、今出勤中だから、会社に行って調べてから返事をしますと答えたらしい。妻は早速その事を僕に伝えた。「○○さんは今出社中だって、働いているんだ」と。完治してから僕とは連絡を取っていないから、彼女が今何をしているかなど全く知らなかった。働いていると言うことだけで嬉しかったのだが、正午を回って返事をくれた時、フルタイムで働いていることが分かった。ああ、これがみんなが僕の所に来てくれたときに口に出す「普通の生活」ではないのかと思った。朝起きて、学校や仕事に行き、夕方には家路につく。夜はテレビを見ながら眠りにつき、週末を唯一の息抜きとして心待ちにする。そんな単純な繰り返しこそが、過敏性腸症候群の人達の普通なのではないか。お腹のことなど1日のうちに考えることがない、そんな当たり前のことが「普通の生活」なのではないか。ほとんどの人が何の努力もなしで最低限手にしているものが、相当の努力なくしては手に入らないか、努力しても入らないとしたら、それはさすがに普通ではない。確かに異常な状態かもしれない。  僕は多くの人を世話して、心身の健康がガラスのように壊れやすいことも知ったが、逆に、治る力も又多く与えられていることも知った。両者が常に駆け引きしながら、それでも人生の多くの時間を快調に暮らす力を与えられていると思う。脈々と受け継がれたのは滅びの遺伝子ではく、生き延びるための遺伝子だと信じている。絶望の遺伝子ではなく希望の遺伝子なのだ。悲観的な僕でさえこれだけは断言できる。