後悔

 そこの場所で、僕には二人の気になる若者がいた。今となってはほとんど後悔に近い。ただ、その空間と僕の日常では全く立ち位置が違うから折り合えるのはかなり難しいような気がする。 二人とも明らかに心を病んでいた。僕はそこの場では職業を明らかにすることはずっと避けていた。ところが全くの偶然で僕の漢方薬を飲んでいる人が訪ねてきた。薄汚い男の正体はばれた。ただ、それでも職業に関連する話題は徹底して避けている。誰かの健康の手助けになるにしたって、僕の場合は経済行為が介在してしまうからだ。経済とはほとんど無縁の空間で、経済的なやりとりをすることは避けたかった。だから、しがない中年男が良かったのだ。  二人は別々の時期にその空間に来た。女性は積極的にとけ込もうとしていたが、その意図的な行為一つ一つが僕には痛々しかった。男性は結局居場所すら見つけられずにすぐに去ってしまった。二人が何を求めてきたのか尋ねたことがないから想像の域を出ないが、恐らく心の病からの解放だろう。  心が傷つき身体が壊れた人達の多くは驚くほど善良だ。愚直で潔癖で他者を傷つけることが苦手な人達だ。持って生まれた善良も、体力があるときには輝くが、いったん体力を失ったときや余りにも心に負荷がかかったときには矛先を自分に向ける。悲鳴を上げたり他者に怒りをぶつけることが苦手な人は、自分の心や肉体を傷つけることで折り合いをつけてしまう。  現代人が心を傷つけられるのはほとんどが家庭と職場(学校)だ。家庭は愛が溢れる空間ではなく、職場(学校)は生存競争の修羅場だ。心が安まる空間ではない。能力以上を期待され爆発か萎縮の選択を迫られる。家族から逃れ、職場(学校)から逃れ4畳半の中に閉じこもれば誰も傷つけはしないが空しさの中で時は臆病にたたずむ。  凡人が善良であり続けることを担保するのは意外にも健康な体だ。息も絶え絶えでは、良い言葉も良い行いも負担そのものだ。退路をふさがれた善意には窒息する。力強い言葉が、優しい言葉が、真実に満ちた言葉が二人を救ってくれると思った。僕は関心を持ちながら傍観者を演じた。そして二人は消えた。彼らが今健康で暮らしているならいいが、それを予想されるような兆候は見られなかった。僕に何が出来るかは分からないが少なくともいつものように「絞め殺したら」と笑って答えることは出来ていただろう。その町に入る時、その町を後にする時、束ねた後悔を工場の煙突よりはるかに高い大橋の上からそっと手放す。