夏休み

 夏の終わりのこの時期は、子供心にも何故か寂しかった。いよいよ長い2学期が始まるという覚悟を決めなければならない時期だったし、自分たち数人しかいない広い海水浴場の澄んだ水中を泳ぐ魚たちともお別れの季節だった。お盆を過ぎた海水浴場は、当時泳ぐべきで無いという言い伝えがあり地元の子供以外は泳がなかった。だから水がとても綺麗で透き通っていた。同じ砂浜でもお盆前のにぎわった砂浜とは別物だった。誰にも邪魔されない広大な遊び場だった。 今では高級魚になってしまった大きな黒鯛も飛び込み台の下に一杯いた。 赤とんぼに背中をおされながらも2学期に向けて気持ちを切り替えていった。当時学校は行くものであると何ら疑うことなく信じていた。好きではなかったが苦痛もなく通っていた。他の子供達の実際はどうだったのか分からないが、ほとんどの子が毎日登校していた。恐らく僕と同じように、ただ通うべきものと言う認識で淡々と通っていたのではないか。 現代では84%の学校に心を患った生徒がいるという。もうどこにでもいるってことだ。心を患ってまで懸命に通っているってことだろうか。僕らの時代は、大人は皆働き、子供は学校へ行くことくらいしかすることがなかった。選択肢が他になかったのだ。情報はごく狭い範囲のことしかなかったから、誰もが同じように暮らしていた。自ずと共同体意識が育つから、傷つけるまではいじめたりしなかった。親も華々しい世界とはほとんど縁がなかったから、子供に過度に期待するようなことはなかった。学校が終えた後、又学校もどきに行かす必要もなかった。成績に関して果たして親が興味を持っていたかどうかも疑わしい。だから親が子供を追い込むようなことなどしなかったのではないか。何時の頃から親や社会が子供を追い込むようになったのか知らないが、いたずらに情報や産業に振り回されては子供が持たない。精神科領域の薬を飲んで登校する子がいるなんて想像しただけでも気の毒だ。  ほとんどが防げるこの種のトラブルは、逆に治すのはかなり困難だ。大きな話をする知識もアイデアも何もないが、丁度今その種の能力を持っている人達が議席を争っている。ほとんどが才能に恵まれた人達だから、想像力を働かせ、心を壊しながらでも懸命に校門をくぐる生徒達のことに思いをはせて欲しい。自分の心を壊してまで命を守ろうとしているいたいけな子供達に思いをはせて欲しい。 赤とんぼが連れてきたのは何処までも澄み切った空。あの色を真似て人はクレヨンや絵の具を作ったに違いない。ずっと眺めていると見上げているのではなくはるか上空から見下ろしているような気持ちになった。空は海にもなれるのだから、幼い人格を破壊するほどの真理なんてあり得ない。