衝立

 昨日、環境調査に行った小学校の教室で見慣れないものを見た。それは衝立で、教室の中にあった。何に使うのか分からなかったが、養護の先生が教えてくれた。  それは視線を遮るために備えられたもので、教室で同級生の視線が怖くなった時に使うのだそうだ。例えば普通の授業のときは皆と同じ状況で授業を受けることが出来ても、試験になると衝立の中でないと平常心を乱すというものだ。僕はその説明を聞いて、学校も変わったものだと思った。勿論いい方向にだ。画一的なことを望むこの国の公が、そうした個性を、それもハンディーに近い個性を守ってくれるようになったのだから。切り捨てることが得意なこの国では、嘗てなかった変化だ。  本質的には同じだと思うが、顔を隠すためにマスクをする人もいる。僕の患者さんの中にも数人いる。顔を隠すと言うより心を隠している、いや自分を隠しているのだろう。マスクにしても衝立にしても、本当はほとんどが露出しているのだが、本人は身を隠しているような気分になれるのだろう。そうすることによって本人が安心ならそれでもいいし、周りがとやかく言うことではない。ただ、僕は職業的に深く関わるし、マスクが、相談される体調不良と根幹が同じであることを知っている。だからマスクを取れるようになる薬を作ったりはしないが、結果的にマスクをする気にもならなくなることは歓迎する。  自分を隠すのは、成長のために必要と言われるナルシシズムの裏返しのような気がするが、そしてそれは全ての人が避けることが出来ないが、結構厄介なものだ。ある人はそれがあるから大きく成長し、ある人はそれのために自滅する。多くの人は「そこそこ」のレベルなのだが時に両極端がいる。  積極的にハンディーのある子供達を受け入れている公の学校が、数年前より随分と落ち着いていた。子供達が先生の話を良く聞いている。地域の住民が学校をしばしば訪ねてくれるからと説明されたが、なんら脚光を浴びることなく、どこにでもある地域力が、子供達を育てているのかと嬉しくなった1日だった。