子育て

 これでは指導助言ではなく、嘆き節だ。だから場の雰囲気は一気に和んで、こちらも笑いの壺に陥りそうだった。 恒例の学校保健委員会が開催され、受け持ちの4校を2週間に渡って回る。今日は2校目だったのだが、出席の父兄も少なかったので和気藹々と言う雰囲気だった。だから会議が始まってすぐに緊張感はなくなっていた。学校歯科医の先生が話好きなのでしばしば脱線するのだが、その脱線で出席者が救われる。西小学校の担当の内科医はとても気さくな先生で、父兄にも学校の先生にも特別視させない度量があり、みんなが井戸端会議のように遠慮無く発言できる。  僕はと言えば何処にいても不真面目に真剣にがモットーだから、ある一つの主張以外は全部カーブだ。直球はここ一番で決めるから意味があるので、投げ続けてはバッターにもキャッチャーにも飽きられてしまう。だから生活習慣を養護教諭が統計にまとめているのを見ても、おおむね良好との簡単な判断だけだ。田舎の、それも人情味の厚い地域で道を外れるような子は出にくい。親を見ていれば想像もつく。社会的な悪以外はほとんど許されていい。遅くまでテレビを見たりゲームをしたりも構わない。どうせ小学生の間は「いつまで起きているの」と口うるさく言っていた親が、中学校に上がるやいなや「もう寝るの?」と口うるさく言うのだから。  僕は若いお母さん方の、お父さん方も同じだが、子育てを羨ましく思うことが多い。人生で一番充実している期間ではないかと思う。勿論つらいこともあるのだが、それは山登りをする辛さでしかない。目的のある辛さなのだ。いわば生産性のある苦労なのだ。僕ら3師はすべて子育てが終わっているから、どちらかというと覇気がない。お母さん方の方が如何にも生命力がある。それを指導だなんておこがましい。だから「僕ら3人はもうほとんど終わっているのだから」とか「あなた方を見ている方がはるかに生産性がある」とかほとんど自虐的な感想に終わってしまう。教科書通りの子育ては出来ないし、それがいいとも思わない。それぞれの個性が学業や職業に反映されれば充分だ。背伸びを強いずに子供時代にしかできないことをすべてやらせてあげて、子供を心おきなく卒業するように手助けしてやれば充分だ。 「来年はきっと、僕たち3人は呼んで貰えないだろうね」と最後も又自虐的な挨拶で終えたが、僕ら終わりかけの人間が役立てる地区ではないのだ。何もかも十分。安堵の光が雲を割って校庭を照らしていた。