地震予知

 数撃てばあたるのだろうが、そうとは言えないくらいあたっているような気がする。数日前妻は「もうすぐ大きな地震が起きるよ」と言った。いつものことだと僕は聞き流したが、翌々日朝のニュースで静岡の地震を知った。震度6以上だからこれは偶然にしても出来すぎだと思って、妻を起こすとさもありなんとばかりの確信に満ちた顔をしている。 妻が地震の予知を口にし始めたのは数年前からだと思う。30年来、薬の配達で飛び回っているから、毎日のように空を見ている。何時どの様な雲が、又どの様な結果が今の予知癖に結びついたのか知らないが、配達の途中で、独特のまか不思議な雲を見つけては予言しているみたいだ。  僕は職業柄か、現実に目の前にあることしか興味がないので、その話を毎度毎度聞かされるのはしんどくてほとんど聞き流している。もう一度このくらい大きな地震を言い当てたらさすがに気象庁に推薦しようと思うが、今は気恥ずかしくて誰にも言えない。結果で喋っても誰も何の興味を示さないので、リスクをとって前もって話す勇気はない。動物の危険予知能力がどのくらい人間より優れているのか分からないが、少なくとも地震保険に入るくらいの予知能力しかない人間よりは無防備な彼らの方が優れているだろう。  願わくば、その能力を何百年に一度の危険より、身近にある幸運に生かしてもらいたいものだ。この人は治っていただけるかどうか。どのくらいの日数で治るか。いやいや、この手の予知能力なら僕でも大丈夫だ。何となく薬を作る時に感じる。いや問診している時にすでに感じる。こちらの気持ちがすごく入っていったり、何か引っかかることがあったり様々だが感じてしまうのだ。例えば今日嬉しい報告を兼ねた注文をくれた女性は、電話で何回か話をしているが、その人の住んでいる街の名前を聞いたとき、卒業して岐阜を引き払うときに後輩達と車で立ち寄ったことを思い出した。僕が覚えているのは、岐阜県境からひたすら下り続けたこと。市内で小さな喫茶店に寄ったことだけだ。表にライブの情報が張り出されていたような記憶がある。たったそれだけが頭をよぎったのだが、僕は何故かその人に幸運がやってくると感じた。いや、やってこないといけない人だと感じたのだ。  世間をあっと言わす能力が無くても、ああ、この人を治すことが出来ると確信できる能力、あっ、治るんだと感じてもらう能力を与えて欲しい。理不尽な苦しみから誰もが脱出しなければ、それこそ理不尽だ。