導火線

「最近、うつむいて歩くことがなくなりました」この言葉が出るようになるまで7ヶ月かかってしまったが、自虐的に生きていた女性が、何処にでもいる女性に戻ってくれた瞬間だ。一人の健全な人格の持ち主がどうして顔を伏せて歩かなければならないのか、その理不尽を説明できる根拠を僕は持たない。  まだ見ぬ途方に暮れている人達のために少しだけ特異な彼女の症状を紹介させてもらう。ほとんど克服してきているから許してくれると思う。みんなで治る、僕の願いも込めて。  鼠頚部でバイブレーターのような振動と音がする。がす漏れで臭いと言われたり、笑われたりした。不可思議な自覚症状と周囲の反応で追いつめられたのは転職の過度のストレスが発端だったらしい。誰にでもある人生の一こまが彼女をその不調に陥れた。恐らくその後からうつむき加減に歩くようになったのだろう。  彼女とはいつも電話で話をするから、ゆっくりと、しかし確実にその不調から脱出しつつあることをその都度感じた。報告してくれる時に使われる単語が明らかに絶望を表す単語から希望を表す単語に変わっていった。徐々に人と接することが苦痛でなくなってきたことが報告されるにつれ、忌まわしいあの症状が消えていった。 電話の向こうの彼女はどこにでもいるいい人なのだろう。それを否定するニュアンスは全く伝わってこない。ごくごく普通の体調に戻り、普通の人が手にする平凡な幸せを手にしなくてはいけない人。僕はいつもそう思いながら受話器を握っていた。  僕がお世話させてもらっている人のほとんどが、彼女に似た性格だと思う。彼女と話をしていて、今までの多くの人と重なる。理不尽な苦しみから脱出して、開花させるチャンスを逸していたそれぞれが持っているはずの才能を咲かせて欲しいと思う。僕にはもう咲かせるべきものはないが、咲かせる能力を秘めている人達の導火線にはまだなれる。