バイオリン

 あるオークションに古い埃だらけのバイオリンが出された。主催者は何の価値もないので1ドルの金額から競りを始めた。それに対して、2ドル、3ドルの声が挙がり、結局3ドルで落札される事になった。その時白髪の老人が突然舞台に上がって、埃を丁寧に拭った後、調弦し、おもむろにそのバイオリンで曲を奏でた。突然の演奏が終わった後、主催者がこのバイオリンは3ドルでいいのでしょうかと問いかけると、会場から千ドルの声が挙がった。最終的には3千ドルで落札されたのだが、教訓を含んだエピソードだ。  解釈はいくらでも出来るのだろう。美談にも出来るし醜聞にも出来る。解釈を強要されるものでもない。学生時代の国語の試験のように、正解が一つなどはあり得ない。ただ僕がこの話を聞いたのは、日曜日の午後の穏やかな気分の時だから、少しだけ前向きな解釈を自分の中でしていた。  僕の薬を飲んでくれている人の中にも、自分を卑下して、3ドルのバイオリンになっている人がいる。でも、僕には全員が3千ドルのバイオリンにしか見えない。自分の評価より例えば千倍もの価値を第3者は見つけている。自分の良いところなんか分かるはずがない。余程のナルシストでない限り、謙遜を知っているこの国の人が、自分を過大に評価することはない。恥ずかしがり屋で、臆病で、不器用で、そんな形容詞を全部集めたような人が僕は好きだ。正直に、持っているものでしか生きていけない人が好きだ。バイオリンの埃を丁寧に拭い、優しく奏でてくれた老人のような人がみんなの回りにいることを望む。それが個人であっても、組織であっても、国であってもいいと思う。誰もがすばらしい音色を隠しているのだから、問題は誰が弦を弾くかだ。