岐阜

 岐阜に住んでいるある女性が、「岐阜駅は確かにきれいになりましたが、そのおかげで? 電車で名古屋に人が流れていってしまってます。昔、あんなににぎわっていた岐阜の街も、今は閑散としてびっくりです。山があり、川がある素敵な岐阜の町も少しさびれかけて、もう少しなんとかならないかと思います。外から見て、岐阜の町はどうなんでしょうか」 と言うメールをくれた。  内容が意外でもあったけれど、思い当たる節もあった。1年前に何十年ぶりに訪ねた記憶をひもとくと、確かに駅もその周辺も綺麗になっていた。広々とした感じを受けた。名鉄を降りて現代的な歩道橋を渡りJRの駅まで行ったのだが、すれ違う人も少なく、閑散としていた。県庁所在地の中心駅とは思えない印象だった。僕が利用していたのはもう30年前のことだから、当然様変わりしているだろうが、何か無機質になったようにも感じた。嘗ての岐阜駅は、暗くて古くて、それこそローカル駅の様相だったが、人は多かった。 駅裏などはおよそ学生などが近づいてはいけない雰囲気だったが、今は高層のマンションなども建ち、健全な太陽の光がさしていた。  金華山の下を流れる長良川を毎日バスで往復した。学生は朝、駅から北にある学校へ向かい、夕方南に帰るが、僕は逆の動きをしていた。授業が始まると繁華街(柳が瀬)の方角に行くバスに乗り、夜には大学の方に行くバスに乗った。5年間岐阜に住んだが、見たのはパチンコの台を跳ねて落ちるパチンコの玉だったし、聞いたのは、ボリューム一杯で館内に流れる流行歌だった。今となってはさすがに観光名所の一つや二つ行っておけば良かったと思うが、行ったのは、測量の助手で田圃の中を走り回った郡上八幡くらいだ。そこが盆踊りで有名だとは、岡山に帰ってから知った。  僕は岐阜にいる5年間で、一生分休んだと思っている。あれだけ怠惰に暮らすことはなかなか出来るものではない。所詮「名ばかり大学生」だから、無限とも思えた時間を徹底的に無駄にした。又、あの頃をくり返せと言われても同じようにしか過ごせないだろう。全く勉強への興味が持てなかった。何のためにが全くなかったのだ。目的のない人生ほど空虚なものはない。何となくこれかと思えるまで10年以上かかった。その何となくが、大学で留年した最大の原因の漢方薬だったから、人生なんて分からないものだ。いやでいやでたまらなかったものが、人の役に立てると思えた瞬間から、いくらでも頭に入ってくるのだ。怠惰に暮らした数年間で頭の中が空っぽになっていたのか、まっとうな暮らしに飢えていたのか、それからは休むことが罪悪のように働いた。大きな波動があるとしたら次は完全なる休憩の波が来るのだが、まだ心だけは働こうとしている。体がついてこなくなっているから、妥協点を見つけなければと思っているのだが。  大いなる無駄を5年間も、いや浪人してから勉強は止めたので実質6年も経験させてもらったので、期待されない、評価されないことには慣れていた。軽蔑され嫌悪されるのは快感だった。人の目を逆手にとって自由を満喫した。でもそれは鎖で足を繋がれた自由だった。その鎖は、僕の中から伸びていた。人から、世間から自由であり得ても、自分からはなかなか解放されない。  岐阜を離れてから30年も訪ねなかったのは、想い出したくなかった不自由な自由を封印しておきたかったからなのだ。