幻想

 下は幼稚園児くらい、上は小学校の高学年くらいだろうか、女の子ばかりが10人くらいで遊んでいた。大きな子がリーダーらしく、幼い子達がくっついて遊んでいた。僕らが幼いときに毎日のように目撃していた光景だ。下校後、広場では、男の子や女の子がそれぞれ集団を造り、日が暮れるまで遊んでいた。勿論個の遊びはなく、全てが集団でする遊びだった。そんな光景を久しぶりに見たような気がし、懐かしくてしばし駐車場からフェンス越しに眺めていた。  そこは僕がよく利用する駐車場の傍にある孤児院だ。垣間見るだけだが、子供達はいつもとてもいい顔をして遊んでいる。勿論小さな心の中に秘めたるものはあるのだろうが、少なくとも、子供達の顔に陰はない。お姉さんと間違えそうな若い先生?もまた同じようにいい顔をして世話(遊び?)をしている。どんな理由でやってきた子達か知らないが、少なくとも家庭は平和ではなかったのだろう。  そもそも家庭が平和なんてのが幻想なのかもしれない。ニュースに頻繁に登場する親子殺人、いやいや孫殺人、いやいや親族殺人、なんだこれは。書くのが恐ろしくなるような現実は、幻想をいとも簡単に粉砕している。恐らく家庭から笑顔は消え、希薄になった空気をあえぎながら吸って耐えているのではないか。沈黙の殺気が窓ガラスをふるわせているのではないか。何が足らなくて、何が多すぎてそうなるのか分からない。何が小さ過ぎて何が大き過ぎてそうなるのか分からない。何がバランスを崩すのか分からない。ただ言えることは家庭に平和は必要だし、平和に家庭も必要なのだ。家族に注ぐ愛情の100分の一でも隣人に注げたら、平和は一歩近づいてきて、注げないなら百歩遠のく。  孤児院で戯れる子供達に平和は訪れている。一度失ったものを社会から得ている。砕け散った幻想を社会やお姉さん先生が拾い集めてくれている。家庭より家庭らしいところが繁華街を少しはずれたところで、黄色い歓声を上げていた。遠く記憶の彼方から聞こえる幻想と共鳴して。