富士山

 選ばれた人達にとって、夢は努力の延長上にあるのだが、凡人にとっては、夢はかなわぬものなのだ。夢は叶えるものではなく、かなわぬものなのだ。その事に気がついてから、夢を語ることは出来なくなった。年齢という便利な隠れ蓑が出来たから、うまく逸らすことも簡単だ。夢も希望も、主語を失い、夢は諦め、希望は傍観者的だ。  今日、九州の女性と話をしていて、夢はと尋ねたら、照れながら「ささやかだけれど、富士山を見ること」と言った。僕はその言葉を聞いて何か不思議な感覚に陥った。叶う夢があるんだという不思議な感覚。叶う夢を見ればいいんだと不思議な安堵感に襲われた。その女性がとても静かに話す人なので、水彩画のような夢もあるんだと思った。夢は活力に富み躍動感を備えているものと勝手に思いこんでいたから。   富士山の麓に住んでいる若い女性に薬を送っていたことがある。彼女は何度か、裏庭からのぞむ富士山の写真をメールで送ってきてくれた。嘗て何度となく新幹線で富士山が見える辺りを通っても なかなか富士山は姿を現してくれなかった。見たくて見たくて仕方ないのに、如何にも無関心を装って、それでも根性で捜しても、ほとんど裏切られた。僕も実は富士山見たがり人間なのだ。静岡県の子はそんな僕の想いを知って、せっせと写真を送ってきてくれた。今はとても幸せに暮らしていて、あれだけ苦しんだ「臭い」も、初めて出来た彼が「いい匂い」と言ってくれるらしい。若いから当たり前の話だが、その当たり前を取り戻すのに、2年間くらい僕と頑張った。  何気なく教えてくれた「富士山を見ること」を是非かなえてもらいたい。きっと近い内にかなえるだろうが、静かに話す女性が、穏やかに、平和の内に生きていくことを望んでやまない。彼女のように華やかな修飾語が似合わない若い男女が、まだこの国に多くいることこそ希望だ。希望は華やかな合唱によっては運ばれてこない。電話の向こうで始発の電車がホームで眠る。