それは1本の電話から始まった。なんて書き始めるとまるで小説のような出来事が起きたのかと思うが、そんなに衝撃的でもないし、高級でもない。  母は、毎日午後から僕の薬局にやってくるが、今日やってくるやいなや「怖かった、だまされるところだった」と言った。顔が引きつっているから何があったのだろうと一気に心配になった。1ヶ月前に初めて、一昨日2回目、昨日3回目。それぞれ違う人から電話が入ってきたらしい。毎回違う人だったらしいが、要件はどれも同じで、市の社会福祉協議会の人間だが、一人暮らしの老人の家を回り、話を伺っているというのだ。その為に訪問しても良いかという内容だったらしい。午後伺うが場合によっては夜になるかもしれないと言うのだ。勿論気にかけてくれているのだから母は快諾している。  今日の昼、偶然母の家を訪ねた兄に、母がその経緯を喋ったらしい。兄は何か腑に落ちないものを感じたらしく、実際に社会福祉協議会に電話して事の真意を確かめた。するとそんな予定は無いという返事だった。一連の電話が何か良からぬことを目的にしていることは想像が付く。色々考えたあげく、警察に電話して指示を仰ぎ、近所の人には協力をお願いし、夜は僕がその訪ねてくる人物を待つことにした。  午後3時頃、あるところから薬局に電話があった。昨日訪問する約束をしていたのだが、お母さんが留守で困っているという。ここまでやるかと思いながら、僕は探りを入れてみた。どうやら昨日も一昨日も電話を入れている。母の言うように異なる人物かららしい。通帳と印鑑を用意しておいてと、あからさまに要求するから何とかうまく接触して捕まえてやろうと思って、用意しておくから薬局の方に来てと言った。すると来るというのだ。無警戒な奴だと思いながら待っているとすぐに来た。  工事服を着ていたが外交員のように愛そうはいい。名詞をくれて自己紹介したがそんな会社は知らない。何でも一人暮らしをしている老人の家に、緊急の電話装置を設置している会社で、市に依頼されてやっているらしい。母も最近加入したので、その支払いを引き落としでするための手続きに来たという。顔をじろじろ見、ネームプレートを悟られないように見、車を確かめ、名詞の電話番号を確認し、インターネットでその会社を検索し、そこで初めて今日の出来事が、母の勘違いと僕ら家族の早とちりと分かった。何でも今まで無料だったものが市の財政難で有料になりその手続きの代行に来たというのだ。福祉関係は全て社会福祉協議会と母は理解しているみたいだ。根ほり葉ほり尋ね、時間を稼ぎ、仕事の能率をすこぶる落としたうえでやっと署名捺印した書類を持って、彼は礼を言って帰った。こちらがどれだけ猜疑心に満ちた顔で対処していたか分からないが、その無神経ぶりにきっと驚いただろう。  こんな田舎でも、老人が結構被害を受けている。こんな田舎でもと言うより、こんな田舎だからこそと言った方が正しいのかもしれない。未だ鍵をかけずに外出したり寝たりする家があり、ご近所とものを分け合って暮らしている。人を疑うことが苦手で、頼まれればいやとは言えない。断り下手で引き受けてから後悔する。もうこれが最後と言いながら、又引き受ける。こんな祖父母や両親を多くの人が田舎に残している。いや自分の意志で残っている。足腰が弱り、病気がちでも懸命に生活しているその人達から奪えるはずがない。 早とちりは恥ずかしかったが、今日は偶然予行演習が出来た。いつ起こっても不思議ではないが、やはりいつまでも鍵がいらない町であって欲しいと思う。こんなことを心配していたら心にまで鍵をかけなくてはならなくなるから。