又会おう

「又会おうや」と言い残して一人の老人が先に帰っていった。実はこういった光景を唯一期待して、市立病院の院外処方を引き受けたのだ。病院が、連休後の混雑からやっと本来の患者数に戻ったらしくて、何とか従来の漢方の患者さんに迷惑をかけなくてすむペースになった。 ぽつぽつと処方箋をもってくる患者さんでも、結構重なって待ってもらうこともある。狭い薬局だが工夫して2つずつの腰掛けを4箇所に用意して、それぞれ人の目を気にしないで待てるようにしている。田舎だからお互い知っている人同志が薬局内で遭遇することもあるのだが、まだ薬局の中でゆっくりすることに慣れていないせいか、薬を受け取ると足早に帰っていくのがほとんどだ。従来の漢方薬を利用してくれている人達の落ち着きようとは対照的だ。それはそうだろう、その人達はお茶やお菓子を楽しんでから帰っていたのだから。  今日薬局内で久し振りに会ったという老人が二人、テーブルの前に並んで腰掛けた。先に来ていた老人が後から入ってきた老人を見つけて、席を示しとなりに腰掛けさせた。薬の説明を聞いていたのにそこから俄然お互いの消息の話になり、こちらが入っていけないショータイムになった。姪が焼いてくれたクッキーとお茶で尚盛り上がり、どのくらい話していただろうか。次の一陣が来て居場所をなくして帰っていったが、その帰り際の二人が交わした言葉が「又会おうや」だった。  1ヶ月、若夫婦が処方箋患者を応対しているのを見たり、妻や姪が薬を届けてあげた後の話を聞いたりして思うことは、孤独な老人が多いと言うことだ。他の共同生活者の存在が伝わってこないのだ。一体何を食べて暮らしているのだろうかと言う一番根元的な問いさえ妻はした。薬を飲むことが命の保証ではない。健康的な食事と人との交流こそが根元だと思う。そこが欠落している人の何と多いことか。そこに自然に介入できてこその分業の意義だと思っている。何かちょっとした栄養とくつろぎを与えられたらと、経済的な裏付けもないくせに考えている。