自己紹介

少数の印象で全てを推測することは出来ないが、きっと当らずしも遠からずだろう。  教会にはじめて来た人を見つけては、自己紹介をしてもらうのが僕が尊敬している若い神父様の方針だ。それは、信者の方が初めて来てくれた人を温かく受け入れる姿勢を示すもので、親密さを醸し出すにはかなりの効果がある。初めて訪ねた人には敷居は高いものだから。他の教会でそのような儀式を見た事がないから、おそらく神父様個人の考えだろう。  僕が玉野教会に足を運ぶようになって2年になる。その間たくさんの方が自己紹介をした。勿論僕も最初に訪れた時には、指名されて皆の前に立ち、話をした。指名されると祭壇の前に進み出て、神父様に促されて話しはじめる。温かい拍手をもらって自分の席に帰る。上手に話せる人もいるし、苦手な人もいる。そんな事は意味を持たずに、心を許し合え、助け合えることが大切だ。  玉野教会は大手造船所の門前町だから、フィリピンの青年が多く住んでいる。カトリック信者の彼らはとても敬虔で、毎日曜日のミサをとても楽しみに通ってくる。時に、インドやベトナム、韓国の人も来る。日本人は勿論だが、東南アジアの人達もとても礼儀正しくて、はにかみ屋だ。寧ろ彼らのほうが現代の日本人より日本人的だ。ところがアメリカ人は違う。神父様に促されても立ちあがろうともせずに、前に進んで礼をして自己紹介もしない。席のところでやっと立ちあがって、ぐらぐら体をゆすりながら自己紹介をした。まして、これが中学校の英語教師だと言うから呆れる。高い金を払って、何を教えさせているのだろう。郷に入っては、郷を壊せと教えているのか。中東に行って中東を壊せと教えているのか。戦後外国に絶えず侵攻し、戦争と言う名の殺人を犯しつづけている唯一の国の人間の、傲慢さにその日1日不愉快だった。今の政治家が飼い犬のようにアメリカに尻尾を振りつづけている構図が、こんな田舎の小さな教会の中でも再現される。殺し続ける国と、侵略されつづけた国の人々の人間性の違いが強調される。戦うことを好まない民族の血を、白人の血に変えてはいけない。謙遜もはにかみも、哀しみも理解できない人種を模倣する必要は全くない。僕らは黄色の皮膚をした、米(こめ)が実のる国に生きている。遺伝子を無理やり変えてはいけない。