実践

 昔、仲の良い兄弟が、米を作り半々で分けていた。ある年、弟は、兄夫婦の所には子供がいるので半々では不公平だと気がついて、夜の間に刈って干していた束をいくつか兄の方に譲った。兄は、弟が結婚するから、半々では気の毒だと思って、夜の間にいくつかの束をこっそりと弟に譲った。一夜明けて田圃に行ってみると、昨日のように半分ずつ竿に掛けられていた。不思議に思ったが、又その夜も同じことをした。3日目の夜、田圃で月の光に照らされたのは、こっそりと相手に取り分を増やそうとしていた兄弟だった。 愛の実践としての神父様の話だったが、とても心温まる話だ。御堂の中には色々な人がいて、いわゆるホームレスの方々も何人かいた。よその教会から来た人達だが、彼らを世話する女性がまさに、逸話の中の兄弟の愛にも負けない愛を実践している人で、何時も遠くから眺めて感心だけさせてもらっている。玉野教会に時々連れてこられるのは、恐らく神父様の説教を彼らに聞かせてあげたい、いや、ご自分が聞きたいと思っているからだろう。同じ説教を聞いて、ただいい話だったと、数分間感動に浸るだけの僕とはえらい違いだ。その方はいい話を力に変換している。数倍もパワーアップして。 せっかくのいい話も、聞く耳を持たないもの、聞いても実行しないものにとっては実らない果物の木みたいなものだ。そこにあることは出来るが、そこで生きることは出来ない。岡南大橋を渡り一歩玉野市を出る頃には、朝捨てようとして橋を渡ったときに持っていたものを全て持ち帰っている。何とも意志が弱く、何時までも向上しないが、橋の上から見下ろす大型フェリーでさえ放心しているのだから、貧弱なこの僕くらい、そこにあるだけで許してもらえるか。懸命にあり続けようとだけはしているのだから。