欲望のがま口

 僕より1つだけ年上なのに、彼には自分の歯がない。歯で押し出されている唇が一般的で見なれているから、唇が落ちこんでいる容貌は、随分歳を取って見える。ほとんど独身に近い生活を送ってきているので、食事はほとんど外食。それも大の野菜嫌い。ヘビースモーカーで歯もろくに磨かない。これで綺麗な歯が揃ってでもいたら、人が怒る。自分でまいた種だから文句は言えないだろうが、さすがに食事に困っているらしくて、今日は弱音を吐いていた。  健康面でも、対人関係でも、ほとんど彼は居直って生きてきた。他人の忠告は耳を貸さないし、人や社会に何かをしてあげる、或いは恩返しをすると言うことに極端に消極的だった。社会は残念ながらそんなに寛容ではない。孤立して生きていくしかなかった。  歯がない人は歯が揃っている人の数倍医療費がかかっていると言う統計が発表された。つい先日のことだ。本人の不自由は個人の問題だから痛みを自分で処理するしかないけれど、医療費となると、国民共有の財産の食い合いだ。贅沢して、横着して、税金を食われたらたまらない。税金は本来やむにやまれぬの世界に使用されるべきだ。ところが、やむにやまれぬどころか、ほとんどが確信犯のところに使われる。動物は満腹になったらそれ以上は口にしない。人間様だけが、欲望のがま口を無限大に開ける。  ある年令から坂道を転がり落ちるように肉体は衰える。何を好んでそれを加速させる必要があるだろう。ほんの少し足らないことを覚えればいいのだ。満ち足りているところに生まれた活力を知らないから。