祝砲

 北陸地方からやって来た女性が我が家にやってきて初めての朝を迎え、3階から2階のリビングに降りて来るなり出た言葉は「どうでした?臭くなかったですか?」だった。僕はその真意をすぐに理解することは出来なかった。 田舎の特権かもしれないが、地代が安いためどの家もおしなべて大きい。我が家も分不相応の大きな建物で、鉄筋コンクリートで出来ていて強固で広い。まして3階建てで3階で寝ていた彼女のおなら(ガス漏れ症状)が階下に、それも階段を駆け下り充満するわけがない。ところが「寝ると臭いがきつくて建物に充満する」という病気でずっと苦しんでいたというのだ。もう3年半漢方薬を飲んでもらっていたのに、そんな悩みを抱えているとは知らなかった。ごくありふれたガス漏れ症状で引きこもっていただけかと思っていた。引きこもりから脱出できて仕事に行けるようになっていたのだが、職場での人間関係にしばしば躓き、職に長く留まることが出来ない程度だと思っていた。だからこの初めての告白には驚いた。この女性はこんなことで、いやこんなに深い、そして滅多にない珍しい(僕にとっては3人目)悩みを抱えていたのかと驚いた。そして彼女の深刻さを表す言葉が続いて出た。「朝、学校に行く小学生が通りの向こうで臭いと言っていたと思うんですけど、臭ってたんでしょうね」だ。通りの向こうと言えば、彼女が寝ていた部屋からは30メートルはあると思う。列をなして登校している子供達が口にしたというのだ。その距離を歩く子供の声が聞こえるのもあり得ないし、勿論僕の家族が夜間異臭を感じたこともない。「何もなかったよ」と素直に答えると彼女は「本当ですか、良かった」と言って涙を流した。  彼女は、眠ると臭いがきつくなることで悩んでいて、1時間しかその夜眠らなかったらしいのだ。夜間階下でモコ(ミニチュアダックス)が吠えたのも自分の臭いが原因だと思って余計眠れなかったらしい。実際は僕の布団に入って寝るモコを蹴ってしまったのだが、その事を教えると、納得していた。 実は今回僕は敢えて彼女を招いたのだ。理由は僕の全くの好奇心からだ。3年半前から彼女に漢方薬を送っているが、彼女は連絡は必ず電話でしてくる。と言うことは3年半の間、僕達は電話でやりとりしているわけだ。北陸訛りか、彼女の個性か分からないが、独特のゆっくりした、甘えたような話し方に魅力を感じ、一体どんな人だろうと常に想像をふくらませていた。何度か誘っていたのだが、いざ僕を訪ねようとすると、決断が鈍ることを繰り返してやっとその気になってくれたのだが、実際会ってみると僕が思い描いていた女性像ではなかった。かつて、あるトラブルでお世話していた元全日本のバスケットボールの女性そっくりの体型をしていた。華奢で女々しいではなく、寧ろ健康そのものと言う第一印象だった。  その後の雑談みたいな問診みたいな会話を経て、勿論目で見させてもらった印象を含めて、彼女の新たな処方がすぐに頭に浮かんだ。今まで飲んでもらっていたのは一応社会に出ることには成功した処方だが、これからは完治を目指した処方が作れると感じた。そして、夜寝ようとすると動悸がして苦しくなることも知った。夜間のガス漏れ恐怖症はその症状でも増長されているのではないかと考えた。お腹の不快感も常に感じているらしいから、まず内臓の動きを正常にする煎じ薬、肝っ玉を強くする粉薬、横になると途端に始まる動悸の薬の3つを作った。持参していた以前の薬は止めるように指示した。 新しい処方の煎じ薬を飲んだその日に「この薬いいかも」と彼女が突然に言った。いつも不快な感覚をお腹に感じていたのが、その日から急激に減ったらしいのだ。そしてその夜は2時間くらい眠れたらしい。勿論朝起きてすぐ「昨日の夜は臭いはどうでした?」と尋ねられたから「何もなかったよ」と答えた。3日目の朝も同じ質問をされたが、その頃から僕は意図的に朝の空気を大きく吸い込んで彼女に報告してあげようとしていた。「気持ちのいい朝の空気だったよ」と教えてあげた。朝の空気を大きく吸い込むと本当に気持ちがいいことを知った。テレビでそんなシーンは目撃するが実際にしてみたことはなかった。4日目から彼女はその質問をしなくなった。寝ようと布団に入ると必ず始まる動悸も4日目から消え以来彼女は毎夜爆睡するようになった。これで「寝るとホテル中私のガス漏れで異臭がし、騒ぎになる」と言う症状が完治した。自分の家でも異臭がし、車の中で夜を過ごしていた過去の彼女がその日から消えた。  残るは狭い空間や沢山の人との接触だが、これはかの国の若い女性達の協力で解決した。日曜日の朝、何故か彼女が教会に興味があると言ったので妻がかの国の女性達と一緒に教会に連れて行った。恐らく他の信者さん達と同じように振る舞ったのだろうが、ミサの後の自己紹介も堂々とみんなの前でこなしていたと妻から、報告を受けた。その後僕は3人と合流して倉敷観光に行ったのだが、何年もの間、そうした楽しみを封印していた彼女が楽しんでくれていることが強く伝わってきた。北陸に帰ったら仕事につく前に旅行をしてみたいと言っていたことが、彼女の回復ぶりを饒舌に現していた。だってホテルに泊まることなど出来なかったのだから。  倉敷の後は再び玉野教会に帰り、フィリピンから来ていた高校生達の歓迎パーティーに出席した。すき焼きを食べ、楽しい時間を彼女も過ごしてくれた。こんなに沢山の人と知り合ったことは今までにないと昨夜話してくれたが、日曜日だけでもかなりの人達と彼女は何ら臆することなく語り合っていた。お喋り好きなんだと認識を新たにした日でもあった。  前回自転車で京都からやって来た青年をやさしく包んでくれた薬剤師の存在も今回大きかった。独特の間合いで会話する水曜日だけの薬剤師だが、今回も彼女の話をじっくりと聞いてくれていた。自分も多くの不調を経験しているからか、同じ目線で話が出来るみたいで、僕がいない方がいい空気を二人で醸し出していた。  そう言えば今回初登場の人物がいる。陶芸の修行をしている青年が、彼女を焼き物体験に連れていってくれた。自分が修行している工房で、土代だけ払えば焼き物が作れるのだそうだ。わざわざ車で連れに来てくれて、又送ってきてくれた。初体験のことだったが、彼女は作品を4点作ったそうで、とても楽しかったと、又自分の作品が焼き上がって北陸に送ってきてくれる日を楽しみにしていると言っていた。  前回の自転車青年がやって来たときから娘が積極的に自分の過去の過敏性腸症候群の体験を語るようになった。体験者だから患者としての苦悩を理解できるし、又牛窓に帰ってきてからは、治す立場としての体験も沢山積んできた。過敏性腸症候群の医療者として最も適している彼女が積極的に語りかけることで、完治へのスピードは上がるみたいだ。  こうした人達のおかげでほぼ彼女は完治した。もうこの数日体の話題が出なくなったのだ。そうすると日頃逃れられなかった体のなんとも言えぬだるさもなくなったみたいで、ごまかしで服用した鎮痛薬もいらなくなったらしい。体が軽い、なんとも当たり前の話だが、なかなかこれを手にすることは難しい。水泳、バレーボール、バスケットと本来はスポーツ少女だったのだから、「元気で当たり前」の状態が復活する可能性を伺わせた。進学校で挫折して過敏性腸症候群を発症したらしいのだが、スポーツの道に進んでいたらこんなことで青春を失うこともなかっただろうと、あるいは15年前に僕を見つけてくれたらと残念でならない。 一杯仕事を変えた・・イコール、一杯仕事を経験したってことだ。事実彼女はとてもよく手伝ってくれて、家族全員が助けられた。事務的なことや、漢方薬を作るときの下準備や、 出来上がりを発送するときの手際などもとても良かったし、覚えも早かった。彼女の長年のコンプレックスが、覚えが悪い、理解力がない、仕事が遅い等だというのだからそれは納得できない。あまりの助かりように、娘はずっと牛窓にいて我が家で働いてくれたらと希望を言っていた。  今日の昼食はいつものようにテレビニュースを見ながら一人で食べた。そして食べ終わるやいなやそそくさと階段を下りてきた。この10日間、食事の度に彼女がいてまるで娘のように会話していたから、若干、空の巣症候群だが、彼女が我が家から荷物を持って出ていくときに寂しくはなかった。それは彼女の生活が一変することが分かっていたから。今まで苦しめられていた症状が全部消え、人を信頼し、自分を卑下せず、自由に生きていくだろうことが予見できたから。そしてその事に僕らがチームとして貢献できたから。家賃もいらない、遊ぶお金もいらない、調度品はない方がいい、食事は質素、そんな田舎の薬局だから出来るお世話が、精神的な未発達などと彼女を診断している医院に優ることを証明した瞬間だ。僅か何分間で診断し投薬することが、10日間一緒に暮らしてみて分かる真実に太刀打ちできるはずがない。安易な診断で未来ある若者を病人にはして欲しくない。彼女のエピソードに「凄い、凄い」を連発する僕は、統合失調症に使う薬が必要な理由はついぞ見あたらなかった。  これだけ生きてくれば多くの若者の中に光るものを見つける術は鍛えられる。感動の連続がどうして人を病人に仕立てられるだろう。安易に病人にしたり病人になったりして、失うことの多さにどちらももっと真剣に立ち向かうべきだ。失わさせても、失ってもいけない。そんな思いを強くした10日間だった。  この時期珍しい深夜の雷鳴は、彼女への天からの祝砲だったのだろうか。