屈辱

「思わず、先生のところに行くように言おうかと思いましたよ」と嬉しいことを言ってくれるが、病院のスタッフがそれを言うわけにはいかないだろう。ただ彼女も数年前に、途方にくれてやってきて、以後漢方薬で見事に社会に復帰できたからつい紹介したくなったのだろう。さすがに病院に勤めているだけあって、患者が飲んでいる抗鬱薬のことも理解しているし、経過がまったく思わしくないことも知っているから、僕に紹介したほうがいいのではないかと誘惑に駆られたのだと思う。 僕のところにやってくる人は現代薬を飲んでいる人が多い。そして僕はそれらの薬を当然今までどおり飲んでもらう。飲んでいると言う前提で漢方薬を考える。僕に言わせればいいとこ取りでいいのだ。要は患者さんが治ればいいのだから、漢方薬自然治癒力を惹起する力を利用して、早く社会復帰できることだけを考える。漢方薬が一番なんて考えたこともないし、こだわりもない。体調が戻れば現代薬はやめれるし、漢方薬もいずれ必要なくなる。 心のトラブルから脱出するのに薬以外で必要なことがある。それはいい人に接することだと思う。偉い人ではなく、いい人にだ。心地よい人間関係ほど、それはすこぶる難しいが、人から警戒心を取ってくれるものはない。人と接するときにまったくの無防備でおれるなら、これほど心が休まることはない。戦わなくてもよいと誰かが言ってくれるなら、自ずと力も抜ける。脱力することが許されないこの時代に、そのことを許してくれる人が近くにいたなら、心は折れない。  僕にはウツウツと暮らしている人が病人には見えない。むしろ被害者に見える。働いて懸命に働いて、蓄えることも出来ずに、どうして健全な精神でおれようか。僕は彼らに言いたい、病人にさせられてなお貢ぐような人生だけは送らないでねと。屈辱はいつか必ず晴らしてねと。