一雨ごとにと古人が表現してきたことを、このところ目の当たりにしている。一雨でがらりとドッグランの景色が変わる。どういった秩序に支配されているのか分からないが、花と呼ぶべきではないかと、擁護してやりたい草たちの貢献を目の当たりにする。
花の色も形も、たたずまいまでもが違っている。時期を少しだけずらし、場所を少しだけずらして、週替わりで可憐な花びらを見せてくれる。牧野富太郎が雑草と言う名の草はないと、喝破したらしいが、花との区別の方が難しく、その扱いに居心地の悪さを感じる。
近所の植物に詳しい方が教えてくれたように、草刈り機を昨年頻繁に活躍させていたら、背丈のある草はほとんど生えなくなった。植物でも身の危険を察して、生き延びるための行動をするのだろうかと不思議だ。意思はないはずなのに、なぜそんなことが可能なのだろうと不思議でかなわない。
毎朝のように草刈り機を使っているが、今年はかなり気を遣って作業している。刈ってはならないお気に入りの草たちがいっぱい生えているのだ。巨大な人手のように地面に張り付いている草以外は、背丈くらいは調節することがあっても、完全に排除しようとは思わない。なぜなこの社会では僕自身がせいぜい花もどきの草だから。