もし道路で熊に遭遇したりしたらどうする。度胸がないから死んだふりもできないし、勇気がないから大声をあげて撃退することもできないし。結局は一目散に背中を向けて逃げるのか。ところが向こうは時速数十キロの短距離ランナーらしいから、追いつかれてガブリ。人生をそれで終える。
 そうしたニュースが伝わってくる。頻度が増している。現場は東京から遠い田舎ばかりだから、緊迫感はない。ただ熊とわずか何百メートルのところで暮らしている人は現実にはたくさんいる。その人たちは田舎の善良な人たちだから声を上げて政治の無策を責めるようなことはしない。
 日曜日、車を玉野の教会に走らせる。そこから岡山に向かう。そして牛窓に帰る。カーブになれば道路の続きが見えないくらいの道路わきの草が伸びている、危険な個所はいくつもある。稲が刈り取りを待っている整備された田んぼの中に、突如、セイタカアワダチソウの無秩序な区画が現れる。山際を走る時には、トンネルのように覆いかぶさった雑木の下を通る。
 どれをとっても見苦しい。僕はそれらの光景を見るのが嫌いだ。かつてはなかった光景だ。県や市に金がないから、公共事業は軒並み縮小され、荒れ果てた山河が残される。動かせもしない原発や、汚リンピックに使う金があれば、そして多くの利権絡みの企てをやめればどれだけの国土がきれいを保てられるだろうと思ってしまう。
 多くの失業者、多くの引きこもり、多くの経済的犯罪予備軍の人たちに、仕事を与えられる。底辺にはおりてこない「金」や「やりがい」を分かち合うこともできるかもしれない。
 東京都心の中で熊に襲われ誰かが命を落とすまで、荒れ果てた国土に思いを巡らせる政治屋は出ないのか。