比例

 がんばれ、鳥取、島根。ついでに岩手。
 この文章を書いている時点で、上記の3つの県はまだコロナの患者は出ていないと思う。鳥取県には50年くらい前に行ったことがあるが、島根と岩手県には行ったことがない。ただどの県にも数人ずつ僕の漢方薬を飲んでくださっている人がいて、電話で話す機会がある。総じてどなたも穏やかで、ちょっとなまったりするととてもそれが心地よく響く。どの県も田舎だと思うのだが、コロナでつくづく思うのは「田舎でよかった」だ。インターネットや物流のおかげで生活上のハンディーはほとんどなくなっていたが、自然に恵まれているという長所に今回の「密集していない」という長所が積み増しされた。
 昨日処方箋を持ってきたある男性は、島で野菜を作っている。コロナが来ても、南海沖地震津波が来ても怖くないと言っていた。それはそうだろう、たとえ物流が遮断されても、野菜は島いっぱいに広がっている良質の畑で「売るほど」あるし、海岸に出て釣り糸を垂らせば魚も釣れる。風呂に入りたければドラム缶に水を満たし、下から流木を炊けばいい。
 僕も隣の広大な古民家をベトナム人の寮のために譲ってもらったが、野菜はかなりの広さに植えることができ、井戸まであるから、お祭り用に買ったテントを張れば、なんとか体育館に収容されなくても暮らすことはできると思う。
 何もない平穏な日々、そうした保証は阪神淡路の地震以来無くなったように思う。一つ一つの災害は巨大化し、世界同時多発的な災害までここで経験する羽目になった。常に不安感にさいなまれ、交感神経を覚醒した不都合な心と体で生きていかなければならない時代が現在進行形で僕らの日常と並走する。
 社会の発展は人と人の距離が短くなることに比例した。しかし、これからは発展ではなく安全だ。それは人と人の距離が開くことに比例する。どちらの比例を取るかはその人の価値観だが。