感動

 一人の老人がストーブの前のいすに腰掛けて、ミサが始まるのを待っていた。玄関から教会に入ったら必ず人が通るところだから、三々五々訪れる信者に、挨拶をする。 僕も当然その一人で、握手で迎えてくれた。いつものことだが、足腰が弱ってきているから、職業柄でもないがつい様子を尋ねてしまう。今日、ふとしたことから彼が帰りにタクシーを使うことを知った。つい最近まで車を運転してきていたように思うのだが、確かに車に乗ったり降りたりするのを目撃していない。タクシー代が2000円を超えるから出費になると嘆いていたが、そのタクシー代は本来の彼の家に帰る距離ではない。すると彼はこちらの疑問を察したのか「今は、〇〇のケアハウスにいるんじゃ」と教えてくれた。なるほど、そこのケアハウスだと市のはずれだからそのくらいはかかるかもしれない。でも、なぜケアハウスに入っているのだろう。奥さんは健在なのか、夫婦そろって体調が悪いのかと、一瞬考えたがそれを尋ねることはしなかった。
 ほんのつい最近まで、挨拶の後には必ず息子さんの話が出ていた。ある公共の仕事に就いていて、それが自慢なのだろうか、赴任地が変わったりしたら必ず教えてくれた。、僕は全く興味はないのだが、いつもフンフンとうなづいていた。ただ、これも最近話題に出ない。足腰の弱りが自分の最大のテーマになっているのだろうと思っていた。
 僕は立ったまま話していたのだが、ある女性がストーブのそばにやってきて、彼の隣に腰をかけた。そして彼に、「元気そうでよかった。いつも心配しているのよ」(不正確だが恐らくこのような内容だと思う)と声をかけた。すると一瞬のうちに男性が目を覆った。涙が溢れたのだ。本当に一瞬の出来事だった。優しい言葉をしみじみと受け止めたのではなく、優しい言葉が何かの感情を一瞬にして噴き出させたのだと思う。優しさは確かに身にしみたのかもしれないが、それにしては間髪を入れなさ過ぎる。恐らく心の中に準備されていた感情があり、それに導火線で火がついたのだろう。
 その用意された、いつも存在していて消せない感情が何か僕には分からない。いつも笑顔の男性の心の底にしまっていたものがあるのだろう。あの年齢になると、そして体力が落ち気力が落ちていくと、いつ何時人生が終るかもしれない。いくら熱心なクリスチャンでも死はそのときまで受容しきれるものではないだろう。
 偶然僕の目の前で展開された小さな劇に、強い印象を受けた。感動はどこにでも落ちている。しゃがんで手のひらに載せてみるかどうかだけのことだ。