共鳴

 「あんたが満を持して勧めてくれたんじゃから、信じて飲んどります」と礼を言ってくれるのは、確かに満を持しすぎたかなと思う男性だ。処方箋を持ってくる人が増えてから、期待した効果に喜んでいる人は勿論、効果が全くないどころか、処方箋を持って来るたびに悪化している人も多く見る。この男性は残念ながら後者だ。まだ半分には折れてはいないが、かなり前傾している。半分に折れて大腿部に手を載せて歩かなければならなくなるのも時間の問題のように見えた。肩書きもこの町では誰もが知っているようなものだし、声も大きく頭もさえている。なのにその前傾姿勢。勿論それによる不自然なヨチヨチ歩き、本人も歯がゆいだろうし、それを見ているだけの僕も歯がゆかった。  沢山の薬を飲んでいる。スーパーで買い物をしたのかと言うくらい薬を持って帰る。ただ僕に言わせれば小手先の治療だ。死なないかもしれないが、元気にはなれない。多くの老人が受けている治療の典型だ。毎日が辛くなく楽に過ごせれば寿命は神様が決めるもの。筋肉と骨を強くしたらどれだけ日々の生活が楽だろうなと思うが、そんなものは保険医療で使われる薬にはない。だから僕は思い切って「筋骨を強くする薬を飲まれたら」と言ってみたのだ。処方箋調剤をしている薬局では、処方箋を持ってきた人に薬局の薬を勧めるのは禁じ手だが、会うたびに歩くことすらおぼつかなくなっている姿を見たら、病院と薬局の紳士協定どころではなくなった。どっち道我が家は病院の門前に薬局を構えるようなおこぼれ薬局ではない。だからこの男性のこれからを救おうと思ったのだ。指をくわえてみていたら早晩寝たきりになりそうだったのだ。  あたかも僕が何かを勧めるのを待っていたかのように、その男性は快諾して以来欠かさず飲んでいる。そのおかげで、この1年間老いが進んではいないと思う。恐ろしいような速さで前傾が増していたのも、ストップしたと思う。歩き方も少し安心して見ておれるようになった。そうしたことを自覚できたのだろう、それが冒頭の言葉になったのだと思う。多くの老人が死ぬのは病気ではなく、栄養失調。毎日多くの老人と接すると、最近言われだしたその手の言葉に共鳴する。