幸先

 僕の中では、これが牛窓ベスト3なのかと思うが、実際には「僕の家から近く」のベスト3だろう。2時間くらいの短い素人案内だったが、得ることも多かった。  これは付録扱いでいいが、最初に行ったのが、匙屋さんと言うお店。手作りで匙を作って全国販売をしている人だが、縁あって母が住んでいた家を使ってもらっている。自由に手を加えていいと言う条件なので、そこは職人さん、徐々に徐々に、御自分の感性に合うように古い家を作り直している。今日は閉まっていたが、外観も随分とそれらしくなり、ガラス越しに覗いてみると工房が一目で分かり、僕などがもっとも縁遠い魅力的な空間を作り出していた。いずれそこにカフェが併設されるらしいから牛窓の人気スポットになるかもしれない。その事を僕自身も大いに期待している。  牛窓海水浴場は、波がほとんどなく、透明度も高くとても穏やかな気持ちになれた。三々五々楽しむ家族連れはあったが、砂浜の時間は止まっていた。秒単位で動かされる現代人には、その緊張から解き放たれる場所になるかもしれない。玉野教会で知り合ったかの国の姉妹と、牛窓介護施設で働いているかの国の女性が、遠くから近づいてくる船をバックに一杯写真を撮っていた。真夏の喧騒よりは魅力的だった。覚えたての日本語で「きれい、きれい」と繰り返していた。  次に向かったのがオリーブ園。1度廃れかけていたが、今又復活しつつある。廃れた時期を知っている僕には不思議な感覚だ。誰の意図と力で復活したのかよく分からないが、案内した人の誰もが喜んでくれる。誰かが言っていたが、牛窓の海は島の配置が絶妙らしい。その言葉を聞いてからそういう風に見始めたからかもしれないが、正にその配置の妙に頷かされる。嘗てオリーブ園には、オリーブの画家と呼ばれる佐竹徳画伯が長い間住み着いていて、オリーブの絵ばかり書いていた。時折見かけるその姿は単なる品のある老人でしかなかったが、絵1枚で家が建つなどと教えられ、外見だけで判断してはいけないという戒めにも一役買っておられた。頂上の広場で何組かの人が、銀色に光る海に浮かぶ島々を見下ろしてゆっくりとした時間を過ごしていた。遊ぶための何かが用意されているわけではないのに、ここまで登って来たい人がいる事がよく分かった。牛窓は他所からやってくる人にはどんな魅力があるのだろうと、長い間疑問に思うばかりだったが、言葉に出来ない何かがあるのだと今日は確信した。しいて今思いついたことを書くと「牛窓の景色は、眺めるだけでα波が優位になる」とでも言えようか。  最後に案内したのがホテルイルマーレ。ここは結構穴場で、まさに日本のエーゲ海を髣髴させる場所だ。日本のエーゲ海を名乗る資格があるとすればここからの眺望だろう。鹿歩山の頂上付近に建つホテルだが、見下ろす海との距離が近い。前島、黒島、黄島も随分と近くなる。このホテルは知る人ぞ知るという表現が似合うと思う。ランチを食べに行ったのに予約で一杯で諦めざるを得なかった。結構ここは食べられずに景色だけ頂いて帰ることが多い。あの眺望で頂く食事の付加価値を常連の人達は知っているのだろう。ここもまた100%案内したら喜ばれる。  2階で玉野教会の姉妹、介護施設の職員、そして次女三女が足を痛めた妻を手伝って夕食の用意をしてくれている。日本で暮らすには料理を作ることが絶対必要だからどの子も料理が上手だ。僕はかの国の料理は口に合わないから食べないが、恐らく今作っているのは日本料理だと思う。お正月の風習を少しだけでも体験してもらえればと思っている。  3が日が終わる。微力ながらも世のため人のため。僕ら世代でそれを除けば何も残らない。どうせなら自分の存在に意味を持たせたい。元旦にフランスパンをかじって前歯が折れた。どん底からの出発。幸先良し。