固定電話

 歯医者さんでこれから正に治療を始めようという段になって、電話が鳴った。歯科衛生士が電話を受けたが、先生が「私ですか?」と言って電話に出ようとした。先生は僕に「ちょっとごめんなさい」と言って謝ってくれたのだが、結局は家から僕宛の電話だった。電話に出ると「漢方薬の患者さんが来られたからすぐに帰ってきて」と妻の慌てた声が聞こえた。すぐにと言われてもせっかく決心して治療に来たのだから、ここで中断すれば心が折れる。なんだかんだと治療しない理由を考え出して時間を稼ぐに決まっている。自分の性格はよく分かっているし、その患者さんは脊椎管狭窄症で2週間前から漢方薬を始めた方だから、少しの時間くらい待ってくれることも予想が付いたから、治療を取敢えずやってもらってから帰ると約束した。  先生も5分で済ませますと言ってくれたが、なんだか早く済ませると歯医者さんに言われると、サービスや真剣さの尺度のようには聞こえない。「先生ゆっくりでいいです」と思わずお願いした。  言葉とは裏腹に先生は口もよく動かした。「何年ぶりかに電話で呼び出されたのを見ました」どういう意味かと言えば、おじいちゃん、おばあちゃんでも今時携帯電話を持っていない人はいなくて、治療中に携帯の呼び出し音が鳴ることは結構あるが、固定電話にかかってきて、呼び出してくれってのは本当に珍しいらしい。「僕は携帯電話を持ったことがないんです」と答えると、歯科衛生士が不思議そうな声で「本当に持っていないんですか?」と尋ねてきた。治療中に彼女が話しに割り込んできたのは今日が初めてだ。それだけ珍しい人間に思われたのだろう。持ってもいないし使い方も知らないと言うと驚いていた。たった携帯電話を持っていないことだけでこれだけ驚きを提供できるなら、意地でもこれからも持つことが出来ない。  携帯電話だけでなく、持っている事が普通で、持っていないことが珍しい、逆転した価値観が横行するようになった豊かな国の日常だ。白物家電から車に至るまでの果てしない物欲、そして原子力発電・・・それと大いなる悪意。