昼過ぎの訪問だったが、大きな木陰ではずいぶんと涼しいことを確かめて、母を車椅子で連れ出した。数メートル間隔で大きな木が、母と二人では十分すぎるくらいの陰を作ってくれていた。3箇所を母が飽かないように車椅子で回る。ちょっと移動しただけだが見える景色が違って、一面の緑にも理由があることが分かる。360度緑に覆われていて、空の青、そして入道雲の白、山や田んぼの緑の3色があれば見渡す景色は全て絵に出来そうな場所だ。母が幼いときに遊んだころと、ほとんど変わっていないのではないかと思った。変わったのは家の素材と道路のアスファルトくらいなものではないか。  何の木かわからないが、いやいや春には桜が咲いていたような気がするから、ひょっとしたら桜の木かもしれないが、蝉が好きと見えて、鳴き声が激しい。見てみると手が届きそうなところで蝉が鳴いている。またいくつもの抜け殻が懸命に木にしがみついている。まさか捕まえることは出来ないと思ったが、あまりにも目と鼻の先で木にしがみついて鳴いているので、捕まえてやろうと手を伸ばした。すると蝉はおしっこをして飛び立った。やはり網でも持ってこなければ捕まえることが出来ないと思ったが、そこまでするほど幼くもないし、執着もない。ただ次の木陰に移った時にまた目の前の幹に蝉が止まって鳴いていた。同じように手を伸ばすと今度は簡単に捕まえることができた。これは予想外だった。母に蝉を渡すと「気持ち悪い」と言いながら正にそのような仕草をした。その瞬間は脳の回路はつながっていたと思う。昼訪ねたときにすぐ「昼ご飯食べたんかな」と心配してくれたからその日の回路はもともとかなり繋がっていたと思う。  興味があったのはそんな母の症状ではない。僕が興味を持ったのは、いとも簡単に蝉が手で捕まえることができたことだ。僕が子供の頃は、網を持ってかなり苦労して捕まえていたと思う。手で捕まえるなんて発想はなかったし、そんな発想ができるわけがない。僕はその時考えた。最早人間は彼らの天敵ではなくなったと彼らが認識できるくらい、人間が蝉を捕まえない時代が続いているのではないかと。ホルマリンを注射され腐らないようにされてから、ピンで刺され空き箱に大切そうに並べられ展示されたのはずいぶんと昔話になったのだ。だから蝉にとって人間は恐ろしい存在ではなくなったのではないかと思ったのだ。子供たちが恐らく、標本作りなる夏休みの宿題をしなくなったのではと思ったのだ。  一つの生き物でも人間を天敵視しなくなったとしたら嬉しいことだ。毎日天敵だらけの世の中を恨んでいる人間としては。