解釈

 僕はいつから海で泳いでいないのだろう。そんなことを考えたのは、朝刊で昨日全国で4人の方が水の事故で亡くなったと言う記事を読んだからだ。そして亡くなった方の年齢を見て、わが身と比べたのだ。  牛窓で育った人なら泳げない人はいない。小学校では海水浴場まで行っての授業が結構あった。また夏休みは40日間ほとんど毎日泳いだ。そんな時代に育った子が泳げないはずがない。だから今でも僕は「泳げる」と思っている。ところが亡くなった人の年齢を見ると、ほとんどの人が中年以上なのだ。と言うことはひょっとしたら過信のなせる業で命を落としているのではないかと思った。嘗て僕たちは「何処までも泳ぐことが出来る」と信じていたが、ひょっとしたらある年齢を過ぎれば、いつまでも水の中で浮いている事ができないのではないかと思った。嘗ての僕らは、海面で休むことが出来たから、浮いていることは簡単だった。身体を消耗しない泳ぎ方も自然と身につけていた。早く泳ぐことを競った経験がないので、その物差しはないが、海面から深くもぐったり、沖に出ることには長けていたと思う。今日、かの国の女性達を連れて県内有数の渋川海水浴場に建つホテルに食事に行ったが、テラスから見下ろしても、水泳区域を示す部位があまりにも砂浜から近いのに驚いた。あれでは沖に泳いで出ることは出来ない。嘗ての牛窓の子に言わせればプールだ。  筋肉も骨も、かなり衰えている人間が、嘗てと同じことが出来ると思っている事がそもそもの間違いだろう。確かに体重が浮力でかなり清算されるから、負荷はかかりにくいが、それでもって、かつてと同じことができるという根拠にはならない。泳いでみるしかないのだが、さすがに今日も僕みたいな年齢の人を砂浜で目撃しなかった。これで泳いでいたら珍しい人になってしまうのかもしれない。中年以上の人を海水浴場であまり見ないのは、ひょっとしたら暗黙のうちに危険を察知しているのかもしれない。うぬぼれや半世紀前の体験が何も役に立たないことを忘れていることが、危険を隣につれてくるのかもしれない。走れなくなった人が泳げるはずがない。走れなくなれば泳げなくなるのだ。都合の良い解釈が危険をつれてやってくる。