熱湯

 正しいとか正しくないとかの判断は難しすぎて僕にはできないが、肌では感じることができる。ニュースで流れてくるのは、国内であれ外国であれ、強いほうが流したものが圧倒的に多いから、つい流されてしまいがちだが、なんとなく肌で感じる部分は違うことが多い。そして色々な機関を駆使して入れられた知識よりは、なんだかその原始的な方が正しそうな気がするし、後ろめたくもない。  偶像崇拝しないと当事者が言っているのに、どうして外部が茶化すのだろう。自由と言う表現がしばしば登場するがなんだか単なる商売のような気がする。「茶化してでも売れればいい」が、どうして表現の自由と言う言葉で守られるのか僕には分からない。仮に僕の家族を冒涜されたら怒るだろう。ミニチュアダックスのモコでさえ悪口言われたら僕ら家族は不愉快なのに。  世界史を習ったが、受験世界史だったので大学の合格発表の日に全部忘れた。だから今の中東の国々の混乱の理由はわからない。ただどうせ石油目当てに欧米の先進国と言われる国々が、その昔もいい目をしてきたのだろうとは想像がつく。そこで自分達につく一部の人々を優遇し、その他をまるで虫けらのように扱ったのではないか。あたかも自分達のほうが優秀などと錯覚して。南極で暮らすペンギンを瀬戸内海に連れてきて、さあ自由と平等なんて言われてもいい迷惑だ。  僕は熱湯を入れて3分待ち出来上がったようなクリスチャンだが、それでもキリストを茶化すようなものを目撃するのは辛い。まして敬虔な信者だったらなおさらだろう。誰の声を代弁しているんだと言いたいような日本の週刊誌など、表現の自由ではなく表現の暴力だ。爆撃機でなんら危険な目にあわず、空高くから殺戮するのと、至近距離で殺戮するのと、どちらに正義があるのだろう。いやいや正義など、どちらも元々求めてはいないんだ。求めているとしたら、それがなければ生きる立ち位置を見出せない庶民だけだ。