希望

 息子が台所から慌てて出て行ったかと思うと、携帯電話を持って帰ってきた。誰かに急な用事を思い出したのかと思いきや、それをテレビ画面に近づけてなにやら操作していた。テレビ画面の右側に最近よく目にする正方形の中にぐちゃぐちゃに線が引かれているやつ(正式名を知らない)にかざしていた。何をしているのかと思って尋ねると、テレビのクイズに応募しているらしい。丁度姉たちが来年予定している数ヶ月の世界旅行クルーズの船の番組をしていたので、そしてペアで一組招待と言うのをやっていたので、その狭き門を目指してテレビ画面に携帯をかざしていたのだろう。思えば簡単にクイズに応募できるものだ。親孝行も楽チンだ。僕らの世代では、少なくとも郵便局に葉書を買いに出かけ、ボールペンで宛名と回答とこちらの住所をしたため、その後又ポストにまで走る。これだけの作業をしないと親孝行の真似もできなかったが、最近は超便利だ。親を飛鳥に乗せてやろうと、今も昔も子供として同じように発想するかもしれないが、行動に移す労力が全く違う。軽くて簡単。まるで新たに開発された器具の宣伝文句みたいだ。  便利の影に置き去りにされているものが最近は目に付く。完全に遅れをとっているから、ほとんど部外者としての視点で客観的に見えるからかもしれない。例えば、LEDで世の中を照らし、特に後進国の人たちに電気を届けることは素晴らしいと思うが、僕も含めて、網膜まで届く青色の光を見続けることの弊害は語られない。不安定な椅子の上に立ち、背伸びしながら切れた電球を交換する労くらい、目を守れることに比べればなんでもない。  現代人は、あまりにも多くの未知との遭遇で、どのように変わっていくのだろう。誰も予測できない、いやしない。行く先はほとんど博打の世界のように思える。棄望、忌望、奇望