古着

 冬に戸外に長い時間出ている可能性はほとんど無いから、とりたてて冬用の服を持っていない。外出はほとんどがドアからドアだから、重い冬服は肩が凝るだけで寧ろ避けていた。ところが正月に従姉妹の家に行ったときに従姉妹が彼女の息子の着古した服をいくつかくれた。嘗て何度も貰ったのだが、その都度重宝している。今回くれた中にかなり重たい、見るからに冬用というのがあって、折角くれたものだから神戸に行くときに着てみた。さすがに電車の中では重たさばかり、いやかさばりようも気になったが、確かに暖かかった。  もう一段評価をあげたのは、朝夕のウォーキングの時だ。ここ数日毎朝のように氷が張っているが、その服で覆われている部分は外に出た瞬間からも寒くはないのだ。他の部分は歩くにつれ筋肉が熱量を作り始めてやっと暖まってくるのだが、その服で覆われた部分は筋肉に頼ることなく最初から寒くないのだ。正直言って不思議な感覚だ。僕にとって冬は寒いもので、衣服に覆われていても寒さは防げないものだった。  去年か一昨年か忘れたが、教会の庭で何かをしているときに、僕の余りにも薄着を見て神父さんが自分が着ている服を僕に貸してくれたことがある。僕にとっては長年の習慣でいつものようにジャージで真冬の行事に参加していたのだが、人様にとってはほとんど秋の服装に見えたのだろう。確かに無造作にタンスの中に丸めている僕の服の全ては秋のままだ。1日中薬局の中にいるのだからそれはそれで何ら不都合はないし、休日も車か建物の中にしかいないのだから秋物でいいのだが、今年あの重たくて暖かい真冬用の服を貰ったから、久し振りに県外に勉強に出てみようと思ったりした。向学心からでなく、服のために、いや服のおかげで遠出が出来る。  街を歩けば多くの方が同じような見るからに軽くて暖かそうな服を着ている。服無し人間にとっては贅沢に見えていたが、あのマックロなんとか言う会社の服も結構貢献しているんだと認識を新たにした。でも僕は買わない。だって、もらい物ばかりで後100年は着られそうなのだから。