こんなことなら早く直しておけば良かった。いやそれ以上、今日のささやかだが価値ある感動にもっと早く出会っていればよかった。 かの国の女性が通勤に使う自転車が壊れたので貸してくださいと数週間前に頼み込んできた。当然我が家の自転車を使ってもらえばいいのだが、我が家の自転車は数年空気を入れてもすぐに抜けてしまう状態だった。何かが壊れているのだろうが、使うことがないので放ったらかしにしていた。何を頼まれても全てかなえてあげていたのだが、こればかりは急にはどうにもならなかった。  この経験でいずれ直しておこうと思っていたのだが、それこそ使う予定がないので再びずるずると放置していた。ところが昨日から我が家に泊まっている北陸の女性が、牛窓を散策したいというので、急遽自転車屋さんに運んで直してもらうことにした。町内で最後に一軒だけ残っている自転車屋さんには、昔から働いている職人さんがいる。店を訪ねると案の定店主ではなくその職人さんが居間から出てきた。もう随分長い間見ていないから、老けて小さくなっていることに、その「長い間」を再確認さされた。もう80歳は過ぎているのかもしれない。  何となく頼りないが「どうしたの?」と開口一番質問されたので、自転車の具合を簡単に説明した。僕は仕事中だったので宜しくお願いしますとだけ言って、修理が終わったら電話をくれるようにお願いしておいた。ところが帰って20分もしない内に直ったと連絡があった。早速自転車をひきとりに行くと、料金が驚くことに200円だった。僕はいくらくらいで直るのか分からなかったので、1万円札を用意していったのだが、小銭入れの中のものですんだ。「200円でいいんですか?」と尋ねた僕に「チューブが腐っていた」と教えてくれたのだが、その時の表情は、嘗て僕らが少年の頃にお世話になっていたときの自信に満ちた表情を彷彿させた。腕のいい職人さんという評価が高かったが、素人の僕は今日当時と同じ印象をもった。  なんでもその職人さんは身寄りがなくて、そこの店主が引き取ってお世話をしているという話だ。美談として地域の人はみんな知っている。どこかの施設に入るのではなく、まさに自分の仕事場で毎日暮らすことが出来るのは幸せだろうと思った。店主との絆を想像する。職人さんが毎日生き生きと暮らすことが出来るように、みんな自転車の修理を依頼してあげるといいななどと考えていたらなんだか涙腺が緩んできた。  箱の中に閉じこめられ、とってつけたような押しつけのサービスに、自尊心が傷ついているのを隠しながら、手を合わせる屈辱を多くの老人が味わっているが、あの職人さんにはまだ腕がある。あっと言わせる腕がある。経済を超越している腕がある。自尊心を捨てなくてすむ腕がある。