パーティーにて

 森永と一言口から出たから僕にはすぐに分かった。年齢を尋ねるとまさしくそうだった。そのせいで背負ったハンディーについてよく理解していた。その程度の障害で良かったなってのが正直なところだった。しかし、それさえなければもっと能力も高く、今僕の前で卑下するような言葉を並べはしなかったと思う。どのくらい手当をもらっているのか知らないが、そんなもので破れてしまった人生を繕えるはずがない。 捨てかけた人生を、内容は異なっても同じような境遇の仲間に助けられたと言っていた。彼らと知り合っていなければ行き着くところまで行き着いているとも言っていた。皮肉にも、彼らに手を差し伸べるのは、愛を日々説き実践しているかのごとき人達ではない。信心を競うかの如く空間で、あたかもテーブルで隔離されたような彼らに、たわいない一言も飛んではこない。 ああ、この人達はこんなに自分が大切なのだと思った。自分が傷つかないことは何よりも優先するのだと思った。本当は人が傷ついたり、底辺でもがいたり、又逆に諦めの中で生きていることなど、どうでもいいのだ。いい人を演じ評価が高まることこそが自己目的化しているように見える。  教会に来て何か得るものがある?何か心に響くことがある?と言う僕のその場では相応しくない質問に正直に答えてくれた。僕の想像していたとおりの答えだった。透き通った都合のよい見えないカーテンで隔離された彼らに、背を向けて発せられる歓喜が突き刺さる。