儀式

 数年間、毎週1回繰り返していたことでも、1年も間が空くと儀式の作法を結構忘れていた。今、昨日のことを思い出しながら文章に起こそうとしているが、今でも笑いがこぼれてくる。昨日からもう何回思い出し笑いをしただろう。  昨日はイースターと言ってキリスト教では大切な日だ。詳しくは分からないがキリストが殺されてから復活した日ではないか。だからその日は大いなる祝いの日なのだ。お互いが「復活おめでとうございます」なんて言い合う。フィリピン人は「ハッピーイースター」と言い合っていた。ハッピーニューイアーしか知らない僕は、この覚えやすい単語で一つ英語の語彙が増えたなんてつまらない収穫に喜んでいる。  それはさておき、昨日神父さんがミサの途中で一人一人に握手をしながら「復活おめでとうございます」と挨拶してお御堂の中を回った。僕のところに来てその挨拶をされたから僕は、本来ならこちらも同じ言葉を返すべきだったのだが、僕の口から自然に飛び出してしまったのは「どう致しまして」だった。全部口から出てしまってからその場違いな言葉に気がついて返すべき正しい言葉を返した。「僕はキリストか?」あの返事ならそうなる。  どうしてそんな言葉が出てしまったのだろうとその後考えたが、恐らくその言葉は口癖のようになっているのだ。病院で手こずっているトラブルを漢方薬で30年くらいお世話してきているから、お礼を言われることが結構多い。その場合に返す言葉のほとんどは「どう致しまして」なのだ。謙遜な言葉でしばしば通ってくるかの国の若い女性達もこの言葉を好んで使う。ただ、教会でこの言葉が出るほど僕は何も貢献していない。  こう書くと謙遜ではないようだが、実は僕は「どう致しまして」と返してもらう機会は「どう致しまして」と返す回数の何倍もある。何故なら僕は些細なことでも感謝の言葉を、それは勿論さりげなくだが、口に出す回数はかなり多い。それもほとんどの人が口にも態度にも出さないような場面で俄然回数を稼いでいる。人はどうもお金を使う立場になると強気になるらしく、優しそうに見える人でも、知性がこぼれそうな人でも、上品な肩書きを持っている人でもぞんざいになり勝ちだ。その点僕は全くそうならない。寧ろその一見強い立場になりそうなときこそ謙遜に努めている。社会的に評価の低そうな人にこそ礼を尽くすことにしている。どんなに権力や財力を持っていても、底辺であえぐ人達の労働なくして社会は回っては行かない。その人達の労働なくして社会はない。こんな当たり前のことがなおざりにされている。僕はその事には我慢できない。だから俄然その状況で頑張り、逆に黙っていても礼で埋め尽くされそうな人種には作法の基準を意識して下げる。この様な性格と、その様な態度がとれる境遇に感謝している。自分の価値観と行動様式が近ければ近いほど生きていくのが楽だ。  そう言えば僕は昔から儀式が苦手だった。だから大学なんて普通の人より2年も卒業式を遅らせてもらった。