愛車

 何処か不具合がありますかと尋ねられたので、時計が数分進んでいることと、エアコンがきかないことだけを伝えた。会社に帰ってから見積もりを連絡しますと言われたから、そんなものは必要ないと言おうとしたが、何となくその言葉を飲み込んでしまった。 翌日見積もり結果の電話をもらったとき、連絡なんていらないと言っていなくて良かったと思った。僕は不具合は2箇所くらいしかないと思っていたのだが、実際は何カ所もあってその名称と金額を一つずつ教えてくれた。その名称はほとんど理解できなかった。一つずつはたいした額ではないけれど積算していくと結構な額になる。そして極め付きが意外にもエアコンで、単なるガス欠かと思っていたらどこかの管が破損していて、エアコンの修理だけで17万円かかると教えられた。どうしましょうと尋ねられたから僕は即答した。「クーラーはいいです。窓を開けて走りますから」と。これで決まった。来年の夏は暑い。窓を4箇所全開にして走らなければならない。と言っても若い頃はそれが普通だったのだから、特別不便なようには感じない。まして僕の車に他人が乗ることはほとんどないので、人を不愉快な目に遭わすこともない。自分が耐えれば何ら問題はないのだ。  車屋さんと話すときはいつも向こうがニヤニヤする。もう良かろうという声が聞こえてきそうだ。随分長いこと乗っているからもう買い換えてくれても良かろうと表情から読みとれる。そんな時は、随分いい車を世話して頂いたからいつまでも乗れると機先を制することにしている。すると向こうは、いつまでも乗って頂いて有り難いですと言わざるをえないし、事実その様に言う。痛し痒しなのだろう。ただ新しい車に乗って何か良いことでも起こるならその選択もあるかもしれないが、何もときめかないのだ。日曜日岡山に用事をすます為だけに利用しているのだから、ときめきもへったくれもない。止まらないように動いてくれればそれでいいのだ。車には安全しか要求していないので、当分この車でいい。動いている間は車だけれど、お暇を出せばその瞬間からくず鉄だ。乗ってさえいれば、生きているうちからくずと呼ばれる人間様よりはずっとずっと立派だ。僕の愛車ボロボがそう言っている。