患者

 ある方に連れられて初めて相談にきた方が、次から次へと治してもらいたい所を並べた。紹介してくださった方も病気の多さと服用している薬の多さに驚いていたが、年齢から言ったら仕方ないのかもしれない。その方は机の上に置いてあった僕の薬局で治った人の例を見ながら、「私もこれがある、これもある・・・」と言って症状を並べた。並べた症状は多岐に渡り、病院なら内科、整形外科、耳鼻科、皮膚科、心療内科、肛門科などをハシゴしなければならないだろう。僕が色々な分野の治った例を書いているからその女性は「先生は何科ですか?」と尋ねた。そこで僕は以下のように答えた。「文句あるん科。このチラシに書いているのがわからんの科。どんな病気でも治せれると思っているん科。漢方が好きだったらおえんの科。僕が向きになって治そうとするのを知らんの科。ところでお宅の方も台風で雨が沢山ふったん科。避難勧告が出たん科。言うことを聞いて逃げたん科。ボランティアには行かんの科」と。「さて、僕のどの科にかかる?」  沢山の診断名に沢山の薬、別の見方をすれば単なる老化のようにも見える。漢方薬ならそれらを抗老化薬としてまとめることは出来るが、それではありがたみを感じて貰えない。やはり一つ一つ丁寧に薬をあてがった方が喜ばれる。しかし、高齢の方の腎臓の機能の余力を考えれば、結構負担になっているのではないかと思う。何かを治すたびに腎臓は着実に負担を受けて、一方通行の機能低下を起こしているのではないかと思う。  ただ、多くの人にとって、僕もその中の典型だが、将来より目先なのだ。目先の楽の方に将来の楽よりも価値を置く。今さえ良ければいいのだ。まして将来を約束してくれるものなど何もないようなご時世だから、直近の結果をせわしなく求めて、右往左往する。それらを高い所から見下ろせる一部の人種のみが、先を読んでいる。自立した市民を気取っても、僕らは所詮危うい社会の患者なのだ。