通り雨

 「通り雨かな」余韻を残す言葉だ。久々に聞いたような気がして新鮮だった。ただその言葉を発したのが国際柔道選手権の無差別級に出てもいいような恰幅の「ごく普通の人」だから面白い。職業柄雨は好ましくないらしくて、一瞬にして上がってくれという期待が、まるで独り言のようなつぶやきに滲み出ていた。  最近こうした美しい言葉が耳に入ってくることが少ない。殺伐とした言葉が世相を反映してか溢れているが、美しい言葉を使う機会が少なくなっているってことだろうか。使う機会が少なくなっているのに加えて、もともと使える人も少なくなっているのではないかと憂えたりする。  空虚に響く言葉は、政治家、役人の専売特許だったが、これに最近はマスコミと科学者が猛追している。後の二つももう最近は信じないことにしている。信じないことに決めたら、新聞の記事の浅はかさに呆れるし、報道番組の保身、無知、したり顔が耐えられなくなる。多くの頁を読まずに捲り、チャンネルの中から報道番組を抹殺し、見るもの聞くものの軽量化を図っている。もう新聞はいらないなあと思っている。機会があれば新聞屋さんに連絡しようと思っている。伝えなければならないことを掘り下げる勇気もないものに朝から触れる必要はない。テレビはイ・サンと水戸黄門が見れれば十分だ。  普通の人の無防備な日常にしか真実の隠れ家がないとしたら、この国は終わっている。