お墓にひなんします

「このたび3月11日のじしんとつなみでたいへんなのに 原発事故でちかくの人達がひなんめいれいで 3月18日家のかぞくも群馬の方につれてゆかれました 私は相馬市の娘○○(名前)いるので3月17日にひなんさせられました たいちょうくずし入院させられてけんこうになり2ケ月位せわになり 5月3日家に帰った ひとりで一ケ月位いた 毎日テレビで原発のニュースみてるといつよくなるかわからないやうだ またひなんするやうになったら老人はあしでまといになるから 家の家ぞくは6月6日に帰ってきましたので私も安心しました 毎日原発のことばかりでいきたここちしません こうするよりしかたありません さようなら 私はお墓にひなんします ごめんなさい」  93歳の老婆の上記の遺書を今日多くの人が目にして涙を流したのではないか。僕も涙が溢れるのを隠すことができなかった。哀しさと、怒りが込み上げてきて抑えるのに苦労した。これは完全に殺人だ。どうしてこんなに何の罪もない、何の欲もない人達を死に追いやって罪に問われないのだろう。原発を誘致した政治家や地元の首長、議員はまだかなり生きているはずだ。金欲しさに原発が安全などと口から出任せを言った学者達も生きているはずだ。どうしてこの種のことに秀でている弁護士などが、彼らを何十年にも遡って追跡し法廷に引きずり出さないのか不思議でならない。また多くの家族を破壊し、多くの土地を奪いどうして法廷に引きずり出されないのかも不思議でならない。たったパン一つを盗んだだけで警察に引っ張られる飢えた庶民と、幾万の人の生活を奪った奴らとどちらが犯罪者なのだ。人一人殺せば殺人犯で、戦争で沢山の敵を殺せば英雄になる矛盾を映画で訴えたチャプリンの悲しげな顔が浮かぶ。  こんな理不尽と共存しなければならないやりきれなさを味わわされる時代の巡り合わせを恨むが、これから先が今まで以上に良くなる予感はしない。さりとて帰りたい時代もないし、こうして当てもなく精神を放浪させるしかないのだろうか。せめて奴らの内の誰かが断罪されるのを目撃して溜飲を下げてみたい。多くの物言わぬ忍耐強い人達と一緒に。