変化球

 「絞め殺してやろうかと思う」と僕のいつもの指導より早く自分で言ったのが帰宅してからでも気になったのか、すぐに戻ってきた。そして入り口あたりで僕を手招きする。乗ってきた軽トラックの荷台には、カボチャとソーメンカボチャ?がいくつか積まれていた。「箱を持ってこられ、上げるから」と彼は言った。  急にお母さんが入院して、痴呆気味のお父さんを母親に代わって病院に連れていく。これが続いているからストレスが相当たまっているのだろう。良く面倒を見てあげているのは誰が見ても分かるから、敢えて口に出した言葉を問題にはしない。寧ろそうして口から一杯ストレスを捨てて身を守ってほしい。溜めていたら本当に体も心もやられてしまう。介護の共倒れになったら身も蓋もない。定年を待たずに農家を継ぐことと介護を決心した孝行の美談が悲劇になってしまう。  長寿社会になってどこにでもある話だ。誰もが通らなければならない道になった。どの様に通り抜けられるか個人によって大きな差があるが、個人の許容の範囲での通過を願うばかりだ。元気な親は子孝行だが、それにも限界があり、いつかは必ず力つきる。親孝行をする気力体力を日々培っていないと役には立てない。  彼にもらったカボチャの一部を孝行がまだ十分得意な国の若い女性にあげた。嘗て、その国に今は帰った女性にどうして90歳の母親と同居しないのか詰問されたことがある。彼女にとっては考えられないことだったみたいで、慣れない日本語で僕を糾弾した。言葉の壁を上手く利用して僕はのらりくらりと逃げたが、思いもかけない不意打ちが今でも忘れられない。 大なり小なり誰もが重荷を背負って生きていかなければならない現代において、言葉でストレスから解放されるくらいの変化球は許される。偉い人なんか価値観そのものが変化球なのだから、下々の口先だけの変化球なんて可愛いものだ。