ノートを目の前に広げて何か書き込むから尋ねると、僕が漢方薬について喋った言葉だった。鍼の先生の紹介で漢方薬を数回取りに来ている女性だが、運の悪いことに薬剤師なのだ。さらに運の悪いことに最近、漢方の勉強会に参加し始めたらしいのだ。も一つ運の悪いことに、熱心なのだ。最後に致命的なのは謙遜で素朴で好感度抜群なのだ。 細切れの説明に「うーん、うーん」と悩んでいるのか納得しているのかわからないような声を連発されると、必要以上に喋ってしまいそうになる。僕は漢方の勉強を始めるときに、今は亡き先輩から処方をみだりにばらさないことを言い渡された。その約束を守ったからこそ、素晴らしい勉強会に参加させてもらって知識を得てきた。僕は皆さんご存じのように漢方の知識は自慢じゃないけれど未だに貧弱だ。しかし、効くことだけを目指して精進してきたから、結構評価は頂いている。雄弁に理論を語ることは出来ないが、頼ってきてくれる人には満足をかなりの確率で与えられている。陰とか陽とか占いじゃあるまいし、そんな古代の診断法を口にしないから権威は全くないが、現代医学の恩恵を受けながら処方を選定するので、当然よく効く。  2週間に一度尋ねてきてくれるから、嘗て僕が勉強したよりも頻繁に彼女は処方に触れることが出来る。それも僕が本当に効くかどうかを人体実験で長年確かめて、篩にかけた貴重な処方ばかりに。このままだといづれ追いつかれてしまうから、彼女には独立するのなら県外にしてと言った。ただもう一つ言い忘れた場所がある。東京だ。さすがに東京は人口が多いのだろう、僕の漢方薬を長年飲み続けてくれている人が圧倒的に多い。だから今度来たら東京にも薬局を作らないでと言っておこうと思う。  彼女が参加し始めた漢方の勉強会は権威もあるし品もある。我流もいいところで、良いところも品もない僕と両極端を並行して学べるのか疑問だが、僕の場合は恐怖の小出しで粘ってやろうと思っている。ただ娘夫婦以外に喋ったことがない処方を上手く喋らされそうで、あの純情を前に僕は鬼になる。