迫力

 偶然見た映像に、福島県のお母さん達が役人にくってかかっている場面が映されていた。お母さん達の子供を守る迫力に比べれば、出張程度の認識しかない役人には緊張感はなかった。幾ばくかの討論をこなせば又安全で居心地の良い東京のオフィスに帰っていけるのだから、そこで頑張る必要もないのだろう。帰りの新幹線の中でほくそ笑んでいる姿が目に浮かぶ。その役人の子を汚染地域に人質にでも取れるのなら言動に信憑性は出てくるだろうが、所詮その場をしのげばいいのだ。  あるお母さんが言った言葉が印象に残った。風評被害とやらで県外に出荷できない野菜を学校給食で食べさせるのかという質問だった。県民の連帯感で出荷できない野菜を救うヒューマニズムと子供の体内に放射性物質を入れる可能性を天秤にはかけれないだろう。ただでさえ、許容量が会社や国にとって都合がいいようにどんどん高められているのだから、それらを信用できるはずがない。浴びてもいい放射線量なんてものがそもそもあるのだろうか。飲料水の安全基準が排水基準の7倍なんておかしなこともあると聞く。  基準を上げる毎に責任から逃れられる。賠償も訴訟もどんどん免れる。どうしてすんなりとそんな意図的なシナリオを受け入れてしまうのだろう。あの地域の人達が発病する頃には政治家も役人も人が入れ替わっている。だれも責任なんか追及されない。だからやりたい放題なのだ。ニュース番組で口を開く人のすべてが穏やかにゆっくりと話す。こんなにいい人ばかりなのか、こんなに穏やかなのかと驚くが、ひょっとしたらこれも編集の成果なのかと勘ぐったりもする。  病気は本来孤独なものだ。ヒューマニズムのあげくが孤独な闘病ではやりきれない。平和時に作られた数字を信用しないで、どうして緊急時の数字を信用できるだろう。何十年後かにいわれのない病で病床に伏せている孤独な自分を想像すれば、いまなすべきことは簡単に分かる。