満面の笑み

 いいとこの奥さんは、見た目で分かる。何歳になっても服装はあでやかで、化粧も手を抜かない。気持ちはしっかりしていて、未だ他人を支配する。悪気があるのではない。長年染みついた習慣なのだ。今でもタクシーを待たせてゆっくりと話をする。僕はタクシーを待たせることが出来る人は半端ではないと思っている。余程階級意識でもないとなかなか気が引けて、そわそわしてしまう。階級意識などが死語になりつつある現代に死語を死語と思わない意識こそが新しい階級意識かもしれない。 80歳を回っても未だしっかりしている奥さんが、かかりつけの医者の前で人の名前が出てくるのが時間がかかるようになったと訴えた。するとその内科医はアリセプトを処方してくれたそうだ。この奥さんが買い物に来たときに教えてくれた。80歳も充分すぎた女性が人の名前が出てくるのに時間がかかるなんて当たり前だと思うのだが、それに対してアルツハイマーの薬が出てくるのは当たり前とは思えない。内科医にアルツハイマーの診断が出来るのかどうか僕には分からないが、まさかあの気位の高い奥さんに面と向かってそんなテストは出来ないだろうし、奥さんもそんなテストを許すはずがない。それ以前に、しっかりし過ぎているくらいしっかりしているのは誰が見ても分かる。プライドを傷つけないように一言一言こちらが気をつけなければならないくらいなのだから。奥さんが買い物の機会にわざわざそんな話題を持ち出したのは、奥さん自身がその薬を疑っているのだ。薬の名前を尋ねた僕にわざわざ帰ってから電話で教えてくれたのは、その薬を飲む確証が欲しかったからなのだ。単なるもの忘れがアルツハイマーなら、中年以降は皆アルツハイマーだ。アリセプトは高価な薬だ。生理的なただの老人の物忘れに若者の税金が費やされる。又これで医療従事者と製薬会社が利益を得る。政治の恩恵を受けれる人達のなんと効率の良い労働だろう。 僕の薬局は処方せんを持ってこずに意見だけ聞かれることが多い。つくずく医院の下請けでなくて良かったと思っている。もしあの奥さんが僕の所に処方せんを持ってきていたら「いい薬を出してもらいましたね」と答えざるを得ないのだから。満面の笑みを浮かべて。