底力

 折角ある症状が半分くらいに軽減していた女性が悲しげに入ってきた。またこの1週間でどのくらい改善できているだろうかと楽しみにしていた僕は、一目見ただけで好転しなかったことが分かった。「今週はだめだった?」と尋ねた僕に、「仕方ないです。すごくショックなことがあったんで」と切り出して、詳細を教えてくれた。 実は彼女には同じ頃同じような症状で苦しんでいた友人がいる。どちらも不可思議な症状で悩んでいたらしいが、方や癌で、方や神経症だったらしい。前者は勿論手術を受け、後者は何軒かの医院を訪ね回った後、結局僕の所で改善を見た。勿論後者が今日の主役なのだが、彼女の友人である前者の癌が再発したらしいのだ。それをうち明けられてショックを受けているのだが、僕が感動したのは実はその後の話なのだ。  再発を他人に話したのは彼女だけで、その理由は、今は地力で通院できるけれど、症状が悪化したり、薬の副作用で通院できなくなったら、病院に送り迎えして欲しいと言うことなのだ。2人に親戚関係があるのではない。同じ集落で近所のよしみなのだ。僕はそこまで他人に要求できて、それを快く受け入れる共同体の底力みたいなものに驚いた。よその町の人だから土地柄を理解できないが、思わずまだそんな人間関係が残っているのと尋ねてしまった。質問の意味がぴんと来なかったくらい、彼女たちにとっては自然な行為なのだ。一人暮らしではないが、老いた義父母には迷惑をかけれないというのだ。いつの時代の光景を見ているのだろうと思うが、現に目の前に心を傷め我が身を傷めている女性がいる。  家庭の内外の苦労を抱え僕の所に頼ってきた女性がまた一つ大きなものを抱える。「可哀相でいったいどんな話をしたらいいか分からない」唯一の彼女の不安はそれなのだ。送り迎えはやってあげたい。それに関しての不満など全くないのだ。 テレビでは政治家が偉そうな顔をして保身に終始する。あいつらに見せてやりたいと思う、庶民の純情を。