落差

 世の中には自分で病気を作って悩んでいる人がいるものだが、この男性もその中の一人だ。僕も色々な漢方薬を作らせてもらっているが、その前には必ず病院、それも大きな病院にかかってからやってくる。病院で納得する病名をつけてもらえないから、そのあげく諦めてやってくるのだが、その諦めもなかなか持続しなくて、そのうち又病院に帰っていく。これを延々と繰り返している。延々と繰り返していると言うことは、延々と生きていることだからたいした病気だとは思えない。ただ本人としてはどうしても解決したい症状なのだ。不思議なことにある症状がでれば今まであったものは消えて、同時に複数の症状で悩むことは余り無い。どこかが調子悪い、そう言った状態が続いている。 こういった人が好きな病名がある。自律神経失調症だ。この言葉を頂くと何故か納得して、妙に諦めがいい。治療する側からしたら、ほとんど「分かりません」と言っているに等しいのだが、何故かこの言葉は落ち着けるらしい。僕もその傾向に習って、どうしようもない時や信頼関係が築けずに早く帰って欲しいときなどはちょっと拝借する。  その彼にどうしてそんなに体調が悪いのだろうねと水を向けてみたら、今まで決して口にしなかったことを言った。「歳をとったことを認めたくないんだ」と。そうか、そう言った気持ちが隠れているなら、彼の症状や彼の悩みはすべて理解できる。神経質などと言う言葉で表していた評価が正しくないことも分かる。まだ現役で仕事を頑張っているから、健康でなければならないと言う強迫観念は常にあるだろう。自分の体調が商売の寿命に直結していることも知っている。健康でなければならないと言う前提は、健康でおれる世代にはある意味ではよい緊張感ではあるだろうが、健康がほころび始めた世代には重くのしかかる。だから、すべての不調が病気と勘違いして悩むのはわからぬではない。高々青年の何割かの生命力で、あの頃と同じような気力体力を望めば、すべてが叶わぬ、夢の又夢だ。病気にでもしておかなければ諦めがつかないだろう。現実と理想との落差にこそ彼はとりつかれていたのだ。 「歳だから仕方ないじゃないの」と繰り返す僕にしぶしぶ納得したような素振りを見せて帰っていったが、果たして納得しただろうか。「○○さん、あなたが嘆いているのは、例えば僕が斎藤佑君のボールを打てないと嘆いているようなものだよ。あるいは僕が東大に入れないと嘆いているようなものかな。あるいは僕が東方神起のメンバーになれないと嘆いているようなものかな。あるいは僕がボブサップに勝てないと嘆いているようなものかな。あるいは栄町ヤマト薬局がマツキヨに勝てないと嘆いているようなものかな」(情けないがこんな例なら無限にある)と説得したのが悪かったかもしれない。頭から勝負にならない例ばっかりあげてしまったから。せめて、僕が福山雅治になれないと嘆いているようなものだよと言ってあげれば良かった。これなら結構近いから。