至福

 外出するのでモコを母の家に預けに行ったとき、ある同級生と出くわした。車に駆け寄ってきて、駅まで乗せてと頼まれたのだが、手に何かを丸めて持っていたので、競艇や競輪なら乗せていかないと断った。その持ち方がその種の趣味のある人達共通の持ち方なので警戒したが、倉敷にジャズを聴きに行く予定らしい。なるほど疲れたスーツを着ているから、一応めかしこんでいるのかもしれない。  頼まれた駅よりももう少し倉敷に近い駅まで送ってあげたのだが、少し話してみたかったから意識してそうしたのだ。牛窓にほとんど同時に帰ってきて、趣味も似ていたからしばしば遊んだ仲間なのだが、空白の数年間があるからその時期のことを聞いてみたかったのだ。世間では存在を否定されるようなことをした人だが、僕にとっては唯一笑わせてくれる存在だった。僕の人生の何割かの笑いは彼からもらったものだ。職業的に、あるいは本来の性格からして、緊張を強いられることが多かったが、彼と過ごす時間は、副交感神経優位の如何にも緊張がとれた至福の時間だった。この数年縁遠かったから、僕の緊張も高止まりしているのかもしれない。  普通なら踏み込んではいけない部分もずけずけと踏み込んで尋ねてみた。縁遠い世界のことをそれこそ嘗ての機関銃のような笑いに混ぜて話してくれた。これこそが彼の真骨頂だ。30分くらいの道中だったが、あの至福の弛緩状態を少しだけ再現できた。願わくば、彼が今明らかに幸せだと言える状態で時間を戻したかったが、みすぼらしいスーツ姿が今を語っている。  体調はいいのと尋ねたら「肩や首が痛かったら整形外科にかかったら、筋肉が落ちて痛んでいるのだからしょうがない」と言われたそうだ。嘗て逆立ちをしたまま階段を上がったり降りたり出来ていた人でもこうなるのだと、自分の衰え方と重ねて納得した。天性のユーモアも生活の糧や規範、強いては体力にも裏付けられなくては発揮できない。失うことに努力はいらない。