棚に上げる

 これほど怪しげな表現はない。街の声、もっとひどいのは国民の声。低俗なワイドショーならいざ知らず、ニュースの中でも平気で使われる言葉だ。ほんの数人、それも東京の便利な場所でマイクをむけて得たコメントを、上記のような一般論に奉りあげてしまう。街の人は皆怒っているとか、国民はみんな不信感を持っているなどと、見てきたような嘘を平気で言う。それだけでもかなりの罪だと思うのだが、恐らく局の意図に沿ったコメント、あるいは商品になりそうなコメントを優先しているだろう。マスコミなどと言うものは表向きはどうでも中身は単純に金儲けが目的だから、金になるネタ、金になる表現が最優先だ。ばか面と正義感面が札束を数えている。  どこの国も同じかもしれないが、どうもこの国の人達も自分のことを棚に上げることに抵抗がなくなったようだ。平気で他者にたいして否定的な言動をとれるから余程自分を過信しているか、自分にはすこぶる寛大なのだろう。余りにも自分の本来と乖離したときには、恥ずかしさを覚えるものだが、その恥の文化も最早地層の中でしか見つけることができなくなったのかもしれない。  目に留まるのは大根役者の魂胆丸見えの演技ばかり。そんなくだらない演技を日常的に見せつけられ、追いかけ、評価しているから、見えないところでの誠意や献身には気がつきもしない。田舎は都会の空気清浄機でもないし、浄水場でもない。たまに訪れて生活の垢を落とすところでもない。殺伐とした都会の人間関係に潤いを持たせる人の集団でもない。肉体労働を担うところでもないし賃金労働者の供給源でもない。街の人が町の人に優る理由はないし、国民が町民を含むとは限らない。口から先の労働なんて信じない。腰を痛めて、首を痛めて、膝を痛めてそれでも尚急斜面の道を上っていく老いた農夫の痛みを信じる。